下街道歩きは先に進みます。

 

 

 

 

「釜戸多賀神社」がありました。各地に八幡社とか神明社は多いのですが、多賀神社は珍しい。文政13年(1830)伊邪那岐命・伊邪那美命を祀って建立されたものの、詳細は不明。元々ここから北方700m程の山麓に鎮座していましたが、中央自動車道建設に伴いこの地に遷座したものです。

 

 

 

 

 

下街道に戻り進みますと、立派なお屋敷がありました。

 

 

 

 

正面に「明治天皇釜戸行在所」なる碑が建てられています。明治13年(1880)明治天皇は、甲州街道・中山道・下街道を通って名古屋経由伊勢まで御巡幸されました。

 

㊟三代目廣重描く甲州猿橋遠景…明治13年甲州街道を行幸中の明治天皇が描かれて

 います。

 

 

当初(4/14)の発表では、中山道~上街道経由で名古屋に向かわれる予定で、中山道の改修も進められていましたが、5/1に下街道筋御巡幸に変更が通達され、地元では急遽中山道の今宿追分経由の道にかえて槙ヶ根新道を開いたり、土岐川に架かる中切大橋も架け替えられるなど、幅2間平均の下街道に整備されました。時は田植え時だったこともあって、地元では大変だったと伝えます。

 

 

 

明治13年6月28日大井宿でお泊りになられた明治天皇は、竹折柳橋で小休止され、ここ釜戸中切小川平蔵方では昼食休憩され、土岐一日市場~高山(土岐)でそれぞれ小休止のあと、多治見で御宿泊され、翌日春日井経由名古屋に向かわれました。総勢460名という大行列だったそうです。

 

 

 

 

下街道を進みますと、左手に延びる「天猷寺参道」がありました。参道はかなり長く、現在の国道19号線を越えた山裾に山門があります。

 

 

 

 

 

臨済宗のお寺「龍吟山・天猷寺(てんにゅうじ)」です。

 

 

 

 

「山門(市文化財)」を振り返って見たところです。天保10年(1839)建立。間口(幅)約4.5m、奥行約3.6mの入母屋造桟瓦葺楼門です。地元の大工・成瀬財助がハナノキ自生地の大木をもって建立したことから、「天猷寺ハナノキ門」と呼ばれています。

 

垂木の形式は扇状に広がる鎌倉矩と呼ばれる特殊な技法を採用しており、大工・成瀬の苦心の作といわれます。言い伝えによれば、その技法を得るため、ちょうど工事中の内津妙見寺(前に記事にしました)に乞食に変装していくも見破られてしまいます。が、その熱意に打たれた信州の名工・立川和四郎が技法を伝授したとされます。

 

 

 

 

過日の記事で、釜戸発祥の地の源三位頼政の和歌を載せましたが、石碑がここにありました。

 

春は花 秋は柴たく かまど山

霧もかすみも 煙なるらん         源三位頼政

 

 

 

 

龍吟の 峯にたなびく 法(のり)の雲

天(あま)の猷(みち)なる み寺たずねむ        御詠歌

 

 

 

 

 

 

 

「天猷寺」は、江戸時代当地釜戸などを治めていた旗本・馬場氏の菩提寺です。初代昌次が父昌祐を供養するため、元和2年(1616)創建されました。延宝8年(1680)3代利尚によって現在地に移されます。

 

内部には本尊聖観音菩薩像が安置されています。

 

 

 

 

「天猷寺の駕籠(市文化財)」は、住職が檀家の法要などに出かける際や、普段は江戸詰めの旗本馬場氏が当地に赴いた際使用したと伝えられる権現駕籠と呼ばれるものです。担ぎ棒の長さは4.1m、駕籠の長さは1m、幅0.7m、前後2名計4名で担いだとされます。乗り口は引き戸、窓には簾をかけています。

 

 

 

 

明治6年(1873)天猷寺を仮校舎として釜戸小学校の前身誠之館が開校されたところです。

 

 

 

 

「旗本馬場氏累代の墓(市文化財)」があります。傘塔婆2基と剣碑14基が整然と並び、江戸時代の武家・旗本の格式の高さをうかがわせます。

 

 

                         2023/05/18