「美濃金山城」は、斎藤正義が築城(烏峰城)し、永禄8年(1565)森可成が城主となって「金山城」と改名したという話は過日記事にしました。
可成には長男・可隆がいましたが、元亀元年(1570)4月、手筒山城攻めで初陣を飾るも討死しています。次男・長可は、永禄元年(1558)尾張国羽栗郡で生まれ、幼名を勝蔵といい、父と共に入城します。入城した年に弟・蘭丸が誕生しています。以降、坊丸・力丸…うめ…千丸(忠政)と毎年生まれています。
元亀元年(1570)父・可成の討死により信長から家督相続を認められ、二代目城主となると同時に信長から「長」の字を賜り、そして森家に伝わる「可」をあわせ「長可(ながよし)」と名乗ります。父亡き後、多くの兄弟を養う義務を背負う長可でした。
森長可像(可成寺蔵)
当時13歳で戦には召集されず、初陣は、元亀4年(天正元年:1573)第二次長島一向一揆討伐で信忠軍の部隊に入り参戦します。第三次長島一向一揆討伐では、敵を敗走させ、舟で渡河し切り込み、27人を討ち果たし、これが後の鬼武蔵「人間無骨」伝説の始まりでした。
「人間無骨」…室町時代末期につくられたとされる十文字槍で、鬼武蔵の異名で知られる森長可が所持していたことで知られる。表に「人間」裏に「無骨」と彫られ、人間の骨が無いに等しいほど突き通すことができる…といった意味のようです。
鎌田魚妙『本朝鍛冶考巻之十八』
それでは「金山城」に登城します。標高277mの古城山に築かれた梯郭式山城です。天守台を山頂に配し、本丸を中心に二の丸、三の丸、南腰曲輪、出丸が連郭式に配されています。
平成25年(2013)に国史跡指定、平成29年(2017)に続日本100名城に選定されています。
大手道から登ります。
森家の家紋をかたどったものです。
「森鶴の丸」という紋です。
蘭丸広場には「伝・蘭丸産湯の井戸」なるものがありました。永禄8年(1565)森蘭丸はこの地で生まれました。
登城道から「出丸」を見上げたところです。石垣も残っています。
「出丸」からの展望は素晴らしい。
すべての石垣は自然石を積む「野面積」です。角に長方形の石を積む「算木積」となっています。この石垣には天端の角が崩される破城の痕跡が残っています。
古城山払い下げ記念碑が建てられています。江戸時代は尾張藩の留山で、明治時代からは皇室の御領林で、昭和20年以降は国有林でした。昭和28年兼山町に払い下げられ記念碑が建てられました。長年にわたり庶民が利用できなかったことで、城跡の遺構が破壊されず残ったようです。
水の手先の西方物見台から見上げる「本丸」石垣です。
二の丸を過ぎ「大手桝形」です。敵の勢いを鈍らせるために設けられた正方形の平地ですが、普段は登城する武士たちへの威厳を示すためのもので、ここで呼吸を整え、衣装の乱れなどを整える場でもありました。
「桝形虎口」…城の出入り口です。
「天守台西南隅石」…算木積になっています。
「本丸虎口」…虎口全体を覆う建物があったような土台石もあり、人に見せる石垣でだったことをうかがわせます。
本丸に到着です。周囲は土塀で囲まれ、北側に天守を設け、隣接して南東側に小天守、さらに南西側に袖櫓が隣接していた。そして中央部に本丸御殿、南西側に西南隅櫓を設けていた。天守は二重二階層塔型の櫓。天守と小天守の複合式だったと思われます。
信長は東濃攻略の拠点として森可成を封じ、金山城主として7万5千石とした。以来可成、長可、忠政、父子三代の居城として戦国波乱の歴史を彩ります。
初代城主・可成は元亀元年9月近江宇佐山で浅井朝倉連合軍と闘い討死。二代城主・長可の時の天正10年(1582)3月甲州武田征伐の折り信長はここに一泊しています。同年6月2日未明、本能寺の変により信長討死、信長に近習していた蘭丸(18歳)、坊丸(17歳)、力丸(16歳)も共に討死しています。母と忠政は安土城にいましたが、ここに逃げ戻ります。そして忠政は岐阜城の信孝に人質として囲われています。
本能寺の変の時、二代城主森長可は信州海津城に在していましたが、信長死す!の報を受け直ちに旧領であったここに戻ります。この後の長可の活躍については後日書く予定です。
本丸跡からの展望は素晴らしいものがあります。
眼下に城下町、前方に水を湛える木曽川、その上方に木曽御嶽山(この日は霞んで望めませんでした)が望める悠久の風景が広がります。
御嶽山などを源とする木曽川は、兼山ダムで一休みし伊勢湾に注ぎます。一部はダムの畔にある愛知用水取り入れ口から110㎞流れて知多半島に恵みをもたらしています。
木曽川上左側は賀茂郡八百津町。下右側は兼山町…殿町などの名を残します。
西方を望めば、遠くに鈴鹿山脈や養老山脈。近くには鳩吹山や猿琢城跡が望めます。霞んでますが岐阜城・金華山、伊吹山も望めます。東海環状線下に「木曽川兼山湊」がありました。
森長可は、天正5年頃から湊町として機能させるため町造りを行い、信長に願い出て「海魚」と「塩」の専売を認めてもらい、商業の町として発展させます。木曽川の船運は、城下町兼山の繁栄を支えました。
2023/04/28