明智城跡から北方に見えた「美濃金山城」を訪ねます。可児市兼山の町は、もともとは「金山」と書きました。今から350年前頃に「兼山」と書き方をかえた町です。北側を木曽川が流れ、湊もあり、多くの人や物が行き交う交通の要衝でした。

 

 

 

 

そこに城を築いたのが、斎藤正義という人物でした。この時期は、斎藤道三が美濃国を乗っ取ろうとする、まさに下剋上の時代でした。

 

正義は関白近衛植家の子として生まれますが、庶子であったこともあり出家させられています。16歳の時還俗し「正義」を名乗ります。「斎藤」姓を名乗ったのは、道三の養子になったという説や、美濃守護代の重鎮斎藤妙椿を祖とする斎藤持是院家を継いだなどの説がありはっきりしませんが、いづれにしても道三の支援を受け戦国武将として頭角を現していきます。

 

16歳で元服するとすぐに初陣を飾り、以降次々に活躍します。道三の支援は、武将としての器量の他に名門貴族の血筋が美濃国人衆を服従させるために必要だったのでしょう。

 

初陣から5年後の天文6年(1537)、斎藤正義は道三の支援を得て「鳥峰城(後の金山城)」を築城します。城が完成すると「大納言」を名乗ります。この頃斎藤持是院家の名跡を継ぐとともに、その支配地八百津町・金山町を引き継いだと思われます。以降、正義は道三の期待に応え活躍し、道三の国盗り事業に大いに貢献します。

 

          斎藤大納言正義肖像画(浄音寺蔵)

 

 

 

天文10年(1541)斎藤道三は、美濃守護土岐頼芸とその子頼次を尾張に追放し、事実上美濃国主となります。同年正義は、前に記事にした久々利城の久々利頼興と講和し、正義の配下とします。

 

美濃を追われた土岐頼芸は織田家を頼り、これに乗じた織田軍は天文16年(1547)に美濃国に攻め入りますが攻略できず、翌年道三の娘帰蝶を織田信長に輿入れすることで和睦が結ばれました。

 

天文17年(1548)烏峰城主斎藤大納言正義に悲劇が訪れます。配下の久々利城主・久々利頼興の招きで久々利城を訪れ、酒宴のもてなしを受けている最中に暗殺されてしまいます。異色の戦国武将斎藤大納言正義は、ここで波乱に富んだ人生を終えるのです。弱冠33歳でした。そして烏峰城は久々利氏によって落とされました。しかし不思議なことに道三は報復行動を起こしませんでした。なぜなのか?道三が久々利氏に暗殺を命じたのでしょうか。道三にとって正義は、武将としての器量と高貴な血筋から、強力なライバルとなると危惧したのでしょうかね。そして天文21年(1552)道三による美濃国平定国盗りが完結するのです。

 

          斎藤道三肖像画(岐阜常在持蔵)