「下街道」歩きは「高山城跡」に登城します。

 

 

 

 

穴弘法から登りつめると…

 

 

 

 

三の曲輪(三の丸)に出ました。

 

 

 

 

平安時代、清和天皇の子孫(清和源氏)は全国に勢力を伸ばしました。源国房は美濃国に勢力を伸ばし、その孫の光信は土岐郡大富に館を築きました。孫の光衡は、伯父光基の養子となり惣領を継承し、鎌倉幕府の御家人となり、土岐氏と名乗り、後に神戸(瑞浪一日市場)に館を移します。この武士集団を「土岐源氏」といい、土岐源氏一族から、肥田氏、浅野氏、多治見氏、明智氏など多くの庶流が生まれました。光衡の子光行は大富の対岸浅野に館を移し、光行の孫頼貞は室町幕府より美濃国守護に任じられ、再び大富に館を移します。敷地は三百米四方の広大なものでした。

 

大富館跡には「美濃國土岐源氏発祥地」なる碑が建てられています。

 

                  ㊟土岐市泉大島・伍所公園一角にあります。

 

 

土岐高山城は、承久の乱(1221)の頃に光衡の従兄弟・高山伊賀守秀頼がこの高台に山城を築いたのが始まりとされます(濃州小里記)。その後土岐光行の孫頼貞、その子頼遠は、室町幕府より美濃国の守護に任命されるなど、土岐高山城は鎌倉から室町時代にかけ美濃国の領主となった土岐源氏の居館を守る重要な役割を果たしてきました。土岐頼遠は美濃国全土を統治するため、岐阜の長森城に移り、その勢力を次第に西美濃に移していきました。

 

天文21年(1552)頃、斎藤道三の下剋上により土岐氏末代の頼芸が追放され、美濃国一帯に戦乱の嵐が吹き荒れました。高山城を築城した高山氏は五代続きましたが、後裔がなく土岐氏一族明智氏の所領となっていました。惣領であった明智定明は弟貞衡に暗殺されるという事件が起き、その混乱に乗じて城主が絶えた土岐高山城を横領しようと御嵩の小栗信濃守が約1千名の軍を差し向けます。これを知った恵那の遠山景行は、信玄から派遣された平井光行・頼母親子とともに約2千の軍勢で攻め落とし、平井光行・頼母親子は土岐高山城の城主となります(濃州小里記)

 

元亀3年(1572)信玄が東美濃に勢力を拡大しようと織田勢と対峙する中、平井頼母は信長の支援を受け強固な要塞として整え、700名の兵により武田軍の侵攻に備えました。天正2年(1574)信玄の嫡男勝頼は1万2千の兵で美濃攻めを行い、ここ高山城でも激しい戦いが繰り広げられました。

 

信長は、天正10年(1582)甲斐に攻め入り武田氏を滅ぼしますが、その3ヶ月後明智光秀による本能寺の変により自害し、美濃国は再び戦乱の嵐に巻き込まれ、高山城を死守していた平井頼母は天正13年(1585)その生涯を閉じます。

㊟明智光秀については土岐明智氏一族とされますが、古文書が少なく、出生の地を含め謎の多いままとなっています。越前に逃れ、その後足利義昭・織田信長に仕え出世します。

 

時は流れこの地一帯は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際、一時岩村城主田丸直昌の支城となりましたが、東軍(家康)に属した妻木氏に攻められ、戦い後妻木氏の支城となります(木氏及び妻木城跡については、明日記事にする予定です)が、元和元年(1615)一国一城令により廃城となります。万治2年(1659)妻木家はお家断絶となり、この地方一帯は徳川幕府直轄の天領となります。

 

 

 

全山が泥板岩で、三方断崖絶壁の好位置に立地し、天然の要害に築かれていました。

 

 

本丸跡に、東屋と物見櫓が建てられていました。

 

 

 

 

 

標高183ⅿに築かれた高山城跡からの展望です。

 

 

 

 

眼下に大富館跡や浅野館跡が望める場所(↑地図参照)です。

 

 

 

                        2023/04/10