「下街道」歩きは陶都多治見の「オリベストリート」を歩きます。

 

 

 

 

銀行名も美濃焼の陶板でできています。

 

 

 

 

さて「美濃焼」ですが、岐阜県東濃地方で作られる陶磁器の総称です。その歴史は古く安土桃山時代に大きな発展を遂げ、千利休や古田織部などの茶人の好みを反映した陶器が焼かれ繁栄します。江戸時代になると庶民の日常食器としての需要を集め、国内有数の生産地として今日に至ります。

 

しかし21世紀以降は安価な外国製品の流通が増えたため、生産量が大きく落ち込んでいます。20世紀以降工業化が進んでからは、工業用セラミックの生産も盛んになっています。

 

 

美濃焼には

 

①志野…室町時代の茶人・志野宗信が美濃の陶工に作らせたのが始まりとされ、厚い胎土の大ぶりな器体に白い長石釉をたっぷりかけて焼くのが特色。

 

 

 

 

②織部…千利休の弟子であった大名茶人・古田織部が作らせたとされるもので、奇抜で斬新な形や文様の茶器など。

釉薬にはいろいろあるが緑色の青織部が有名。

 

 

 

 

③黄瀬戸…淡黄色の釉薬のかかった美濃焼ですが、桃山時代では広く瀬戸焼と理解されていた。

 

 

 

 

④瀬戸黒…などがあり、

 

何人かの著名作家が、国無形重要文化財保持者(人間国宝)になっています。

 

 

さてその中の織部焼を作らせたという「古田織部」ですが、岐阜県本巣郡で生まれ、信長・秀吉・家康に仕えた武人でした。千利休の高弟となり、茶事はもとより陶器まで自由・奔放の世界を開いた「織部流茶道」の創始者でもあります。

 

千利休・古田織部・小堀遠州らにより茶の湯が大成された桃山から江戸時代初期、美濃では天目・黄瀬戸・瀬戸黒・志野などの陶器が生み出されました。中でも古田織部は「織部焼」を誕生させ、その斬新な意匠は今でも多くの人を魅了しています。

 

その創造性は、ゆがみ・ひずみ・ゆらぎ・などといわれる美意識だそうで、様々な芸術に影響を及ぼしたといわれます。

 

一時途絶えた織部焼ですが、昭和時代以降多くの芸術家によって再興され、今では工芸品から食器まで広く作られています。

 

 

 

古田織部(1543~1615)は、美濃国国人領主の子として生まれ、武将としての経歴を歩みつつ父の血をひいて茶人としての嗜好性をもって成長したとされます。

 

もともと美濃国守護大名土岐氏に仕えていたが、信長の美濃進出前後に信長に仕え、禄高は少ないものの武将として活躍しています。

 

信長死後、豊臣秀吉に仕え、賤ケ岳の戦いでも軍功を上げ、天正13年には、山城国西岡の城主となります。

 

関ヶ原の戦いでは東軍に与し晴れて1万石の大名に列せられ、徳川将軍家の茶道指南・茶匠となっています。その織部に悲しい運命が待っていました。

 

豊臣秀頼が亡父秀吉追善供養のため建立した方広寺の梵鐘事件です。「国家安康…君臣豊楽」…豊臣家滅亡のきっかけとなった事件でした。その銘文を起草したのが南禅寺の清韓禅師で、家康により蟄居を命じられていました。

 

その蟄居謹慎中の清韓禅師を、古田織部が茶に招いてもてなしたことが家康の怒りをかい、豊臣家と内通しているという嫌疑をかけられ、慶長20年(1615)一族に切腹が命じられるのです。

 

「茶に上下なし」…の思想を打ち出した織部の茶道を含め、自由は当時の政治情勢下では容認されないものでした。支配者への不忠行動、封建社会の秩序を乱す恐れのあるものは、たとえ将軍家の茶道指南役であっても許されないことを諸大名に示されなければならなかったのです。

   

 

   お茶を

   信長さまは酒となし

   秀吉さまは見せ物となし

   家康さまは薬となされ

   われ三代に仕え幸せに存じ候

 

   茶を捨てるか命を捨てるか

   迷わず候

 

  写真の古田織部像は、岐阜県本巣にある道の駅おりべ本巣「織部展示館」にて

 

 

 

オリベストリートを進みます。

 

 

 

 

 

料亭「松正」

 

 

 

 

この街道沿いにいろいろなお店があるのですが、なぜか写真とってありません。手打ちそば「井ざわ」…満席で店外で待つ人もいて諦めました。結果的にこの先食事処ありませんでした。

 

 

 

 

KOBANもお洒落でした。

 

 

 

 

 

 

オリベストリートはその先まで続くのですが、「下街道」はここで左折です。

 

 

 

 

 

                  2023/03/15