「下街道」は、内津に入りました。緩い坂道を登っていきます。遠方に見える山は愛知地丘陵で、弥勒山に続く尾根です。この尾根には東海自然歩道が通っています。

 

 

 

 

 

 

庄内川に注ぐ内津川も源流近くなってきました。

 

 

 

 

しばらく登りつめると、内津町集落です。

 

 

 

 

下街道愛知県側最北の集落で、明治の初め130余戸の人家と10軒の旅籠、13軒の問屋がありたいそう賑わったそうです。

 

いまはその面影も薄れていますが、簡易郵便局も…

 

 

 

 

派出所もあります。そうそうこの「交番」制度、日本の各地に配置される素晴らしい制度ですね。村の駐在さん…といったイメージがありますね。外国の一部でも取り入れているところがあるとか。

 

 

 

 

お洒落な邸宅の外壁です。

 

 

 

 

 

 

右側の高いところに曹洞宗のお寺「見性寺」がありました。安永年間(1772~1780)名古屋大須万松寺の19世綱国玄提和尚が再興した寺院です。

 

 

 

 

 

 

 

尾張の俳人「横井也有」が、彼を師と仰ぐ内津の長谷川三止たちに招かれて、安永2年(1774)8月この地を訪れました。その折りかねてから親しくしていた綱國和尚がこの寺に隠棲していたので、ここに寄り旧交を深めたとされます。そのときに詠んだ句

 

あたゝかな 家あり山は 秋ながら

 

也有はその時の紀行文『鶉衣(内津記)』を残しています。

 

 

 

 

道をはさんだ向かい側に「鵜飼家」があります。屋号を「舎(やまきち)」といい、江戸時代中頃より大正時代にかけて味噌・たまりの製造販売を手掛け、尾張藩から苗字を許されるほどとなります。

 

 

 

 

後に解熱剤「正生丸」、腹痛薬「金勢丸」の製造販売も行い大いに繁盛したといいます。

 

 

 

 

 

元治元年(1864)に建てられたこの住宅は、奥に三棟の蔵を持ち、春日井市都市景観形成建造物に指定されています。

 

 

 

 

この地は、明治天皇行幸の折の小休所となっています。

 

 

                          2023/02/28