「旧東海道歩き」は箱根東坂を下っています。

 

 

正眼寺から少し下ると「早雲寺(そううんじ)」がありました。

 

 

 

 

 

「早雲寺惣門(薬医門)」をくぐります。

 

 

 

 

「金湯山」という山号です。箱根湯本はもともと早雲寺の門前町として始まったとされます。

 

 

 

 

 

「中門」をくぐると…

 

 

 

 

すぐ右手にあるのが「鐘楼」で、鎌倉時代末の梵鐘で神奈川県重文となっています。

 

 

 

 

 

「山上宗二慰霊碑」…秀吉の茶匠でしたが怒りをかい浪人。前田家に仕えますが再び秀吉を怒らせ、小田原にくだり北条氏に仕えます。秀吉は利休を介して再登用しようとしますが、断ったことから、耳と鼻を削がれ打ち首になったという。享年46歳。

 

 

 

 

寺伝によれば、北条早雲(伊勢盛時)の遺言でその子北条氏綱が、大永元年(1521)創建したと伝える臨済宗大徳寺派のお寺です。戦国大名小田原北条氏の菩提寺です。

 

箱根権現に深く帰依した歴代北条氏は、東国における既存の宗教と政治秩序を利用しつつ、戦国大名として覇をとなえ、栄華を極めてきました。

 

天正18年(1590)秀吉による小田原攻めで一時的に本営が置かれますが、石垣山城(一夜城?)が完成すると、当寺を含む一帯は秀吉により焼き払われます。その後は北条氏滅亡によりその庇護を失い荒廃します。

 

寛永4年(1627)17世・菊径宗存により再建、慶安元年(1648)徳川3代将軍家光から朱印状が与えられ復興します。

 

 

 

 

「北条早雲(伊勢宗瑞)」…戦国時代初期の武将。戦国大名となった、後(小笠原)北条氏の祖・初代。北条早雲の名で知られるが自身は「伊勢」を名乗っており、北条を称したのは嫡男・氏綱の代になってからである。

 

                       ㊟伊勢宗瑞像・小田原城所蔵

 

 

 

 

 

連歌師飯尾宗祇の歌「世にふるも更に時雨の宿りかな」…「時雨降る一夜の雨宿りをするのは侘しい限りだが、人生そのものが時雨の過ぎるのを待つ雨宿りのようなもの」…といった意味か。

 

 

 

 

境内奥に、後北条氏5代の供養塔があります。右から初代早雲、2代氏綱、3代氏康、4代氏政、5代氏直と並びます。寛文12年(1672)に北条氏末裔により建立されたもので、小田原北条氏滅亡から82年後のことです。

 

早雲の供養塔には「早雲寺殿天岳宗瑞公大居士俗名伊勢新九郎長氏」と刻まれています。

 

 

 

 

「稲津祇空之墓」…江戸時代前期の俳人。正徳4年(1714)大坂へ帰郷する途次、宗祇墓前で栢州和尚のもと剃髪。宗祇から一字をとって「祇空」と号します。この俳人は、最後は早雲寺内に隠棲したほどで「この世をばぬらりくらりと死ぬるなり地獄潰しの極楽の助」を残しここに葬られます。享年70歳。

 

 

 

 

「宗祇法師之墓」…室町時代の連歌師。文亀2年(1502)宗長(急がば廻れ…)と宗碩とともに越後から美濃に向かう途中、湯本の宿で没しています。享年82歳。

 

 

 

 

「開山堂」です。

 

 

 

 

境内にはいろんな供養塔があります。紹介しきれませんがその一つ

 

「遊撃隊戦死主墓」…倒幕佐幕で揺れた幕末、箱根山崎の戦いで戦死した隊士を祀ったものです。

 

 

                          2022/11/10