4ヶ月ぶりの旧東海道歩きです。今回の歩きは「沼津駅」からです。

 

 

 

 

中央公園に来ました。ここは面影が全くありませんが、「沼津城(三枚橋城)本丸跡」です。

 

 

 

 

「三枚橋城」は、武田信玄の子・勝頼が、後北条の戸倉城に対抗して築城。武田氏滅亡後は徳川氏の所領となり、関ケ原合戦後大久保彦治右衛門忠佐が2万石で城主となるも、世継ぎがいなかったことでお家断絶・廃城となります。

 

160余年後の安永6年(1777)水野忠友(後に老中となる)が沼津の地を与えられ、城を築きます。それが「沼津城」でした。三枚橋城の規模に比べ小さなものでしたが、三層の櫓がそびえ、幕閣の要職を務めた水野氏の居城にふさわしいものだったそうです。

 

 

 

 

前回はここまで。ここから旧東海道を三島に向かいます。

 

 

 

 

「川郭通り」…狩野川に面した城郭に由来します。

 

 

 

 

 

廣重描く「東海道五拾三次之内 沼津 黄昏」図です。狩野川の支流に架かる三枚橋の向こうが沼津宿の入り口です。月も昇り始めた頃、宿に急ぐ巡礼の親子連れ、猿田彦の面を背にした金毘羅詣での旅人…このシリーズの傑作の一つとされる絵です。

 

 

 

 

 

 

平町という所を斜め右に向かうのが旧東海道です。

 

 

 

 

しばらく進むと「日枝一里塚」です。江戸から30里。日本橋を起点に1里ごとに設けた里程標で、街道の両側に塚を築き、榎や松が植えられました。ここ日枝一里塚の反対側の塚は現存していません。

 

柵内にある大小の石は「玉砥石」です。今から1200年~1300年前の古墳時代に「玉類」を磨くために用いられた砥石とされます。このあたり古くに「玉造郷」があったとされ、古墳も多く玉類も出土しているとか。

 

 

 

 

「平作地蔵」と名付けられたお地蔵さんがあります。明治40年頃廃仏毀釈運動で荒廃放置されていた地蔵尊を、地元の人が見かねて小堂を建て祀ったとされます。

 

この「平作」とは、歌舞伎演目『伊賀越道中双六』六段目「沼津」に登場する雲助平作のことで、仇討ちに翻弄される生き分かれた親子の人情物語だとか。

 

 

 

 

三代歌川豊国描く「東海道五十三次之内 沼津」に描かれた平作です。後ろに描かれている木柱は、沼津宿の入り口に立てられていたであろう榜示杭です。

 

 

 

 

山の上に見えるのは三重塔でしょうか。地図には「立正堂」とあります。

 

 

 

 

さらに進むと旧国1道に合流します。

 

 

 

 

脇には祠がありました。

 

 

                           2022/10/27