旧東海道歩きは「原宿」目指して東進しています。

 

 

 

間の宿「柏原」に入りしばらく進みますと、日蓮宗のお寺「立圓寺(りゅうえんじ)」がありました。

 

 

 

 

万治3年(1660)日審によって開創されたお寺。日審は、全国布教遊化のとき、霊峰富士の眺望が東海道で最も素晴らしいといわれる当地に一宇を建立したのです。しかし昭和初期の大火ですべて焼失してしました。

 

 

 

 

文化5年(1808)5月、尾張藩の典医「柴田景浩(1745~1812)」が、この地から望む富士山の美しさに感銘。望嶽碑を建立。

「私は山が好きで、また山を絵にかくことが好きである。山といえば富士より優れた山はなく、富士の眺めといえばここから望むのが一番である。私は富士を見る前から絵を見て想像をめぐらせていたが、富士を見てからは自分の見たままを絵に描いた。…願わくはお前の麓で死にたいと思うが、なかなか思うに任せない。…そこで髪の毛を切ってここに埋めることで気持ちをここに表し、百年後の私の魂のためにも戻ってくるべき場所を作っておきたいと考えたのである。私の姓名は柴田景浩、字名は子博といい龍溪と称する。尾張藩の典医である」

 

 

 

 

その霊峰富士は、残念ながら雲に覆われていました。

 

 

 

 

廣重描く行書版「東海道五十三次之内 原 柏原立場ふじの沼」にその姿をとどめます。

 

 

 

 

境内に柏原海岸で台風のため遭難したインドネシア船・ゲラテック号の錨が奉安されていました。この遭難で2名の船員の命が奪われ、ここに慰霊を祀り碑を建設。

 

 

 

 

「間宿・柏原本陣跡」がありました。面影はありません。

 

 

 

 

「JR東海・東田子の浦駅」です。

 

 

 

 

「沼津市」に入りました。

 

 

 

 

街道を進みますと…

 

 

 

 

「三社宮」がありました。当地の鎮守の神である浅間神社ですが、三社宮と呼ばれています。祭神は「木花咲耶姫命・愛鷹大神・松尾大神」慶安3年(1650)創建。

 

この方角に霊峰富士が浮かび上がるのですが…

 

 

 

 

廣重描く保永版「東海道五拾三次之内 原 朝之富士」です。山頂は画面からはみ出し、その高さを強調、朝焼けの富士山の神々しさ、雄大な存在感が伝わってきます。旅人が足を止め振り返って眺めたほどの去りがたい情景です。

 

 

 

しばらく歩くと「原宿一里塚跡」がありました。宅地化が進んで面影はありません。

 

 

                     2022/5/25