コロナ騒動で遠出もままならず旧東海道が歩けていません。そこで、近場のマイナーな街道「下(した)街道」を歩いてみようと思い立ちました。
↓図にある「善光寺街道」とある道です。この先「中山道」に合流し、洗馬で別れ、「善光寺西街道」をへて「善光寺」に到る道です。
名古屋を起点に、春日井市~多治見市~瑞浪市(釜戸)をへて「中山道・槙ヶ根追分」に到る約60㎞足らずの道です。
東海道・中山道のようなメジャーな街道でなく、江戸の当時は裏街道の扱いだったため、本陣や一里塚などもなく、古い町並みなども少ないため、史跡もあまり残っていません。
名古屋から江戸に向かうには、「東海道」を行くか、「中山道」を行くことになるのですが、その「中山道」に合流する尾張藩の正式な道は「稲置街道(木曽街道・御殿様街道)と呼ばれ、武士や物流はこの道と決められていたことから「上街道」と呼ばれます。しかしこの道は「下街道」より4里も遠い19里も行かねばなりませんでした。
そこで皆は、御法度を承知の上で「下街道」を使うようになってしまいました。裏街道なので、運送費も公に決められているわけでもなく、距離も短いため、安価にものが運べ、多く利用されました。尾張藩は何度も禁止令を出すのですが、時が経つといつの間にか元に戻りそんなことの繰り返しでした。
人の旅が規制されたのは武士だけでしたので、庶民は自由に下街道を往来していました。名古屋からの「御嶽山参り」や「善光寺参り」、信濃や江戸からの「伊勢参り」で賑わったようです。
明治に入ると、国鉄もこのルート(中央西線)を通り、国道19号線として整備され発展します。