私の「日本縦断旧街道歩き」は、東海道宮宿(伊勢湾)を起点に、富山湾を目指すものですが、途中「美濃路」を中山道垂井宿まで歩き、「岐阜街道」を長良川河畔まで歩き、「郡上街道」を石徹白まで歩き、「飛騨西街道」を飛騨金山まで歩き、「飛騨南街道」を美濃太田から飛騨金山手前まで歩きました。この先飛騨金山から「飛騨街道」を北上し、高山、そして富山を目指します。

 

「飛騨」は岐阜県北部に位置し、かって「飛騨国」と呼ばれたところです。古くは「斐太」「斐陀」などと書かれ、『日本書紀』では「飛騨」と表記されているところです。

 

そんな中央から遠く離れたところでも、人々の営みはあり、自然発生的に道もつながっていました。奈良時代、地方の国々は「租・庸・調」と呼ばれる税や貢物を朝廷に納めましたが、貧しい飛騨は税を免除される代わりに労働力が差し出されたのです。都で宮殿や社寺建築の工事に携わったのですが、そんな中から腕を磨いた職人が生まれてきます。それが「飛騨の匠」と呼ばれる人たちでした。

 

いづれにしても飛騨から送り込まれた労働者は、原則1年交代で毎年100人を超える労働者が奈良の都に送り込まれたそうです。その労働者が行き来した道が「匠街道」と呼ばれた道で、今につながる「飛騨街道」の一つだったのでしょう。また「東山道飛騨支路」に重なります。

 

「飛騨街道」といっても、旧東海道のように、起点と終点が決まっているわけではありません。飛騨の中心である高山を目指す道は、ある意味すべて飛騨街道でした。もっともいろいろで、↓の図では、「益田街道」となっています。これは益田川(飛騨川上流域)が益田郡と呼ばれたことからの呼び方と思われます。

 

 

 

「飛騨西街道」「飛騨南街道」が合流し、「飛騨街道(益田街道)」となる飛騨金山から北上します。

 

 

 

 

「JR飛騨金山駅」からスタートです。金山橋から上流を見たところです。左「馬瀬川」、右「飛騨川」が合流するところです。江戸時代この合流点が、天領・尾張藩・苗木藩・郡上藩の境でした。そんなこともあってか、馬瀬川に架かる橋は「境橋」と名付けられています。このあたり国境は複雑で、国境争いもあり幕府の調停もありました。「金山町」は美濃国尾張藩領で、ここから北がいわゆる飛騨国でした。しかし「金山町」は、昭和30年(1955)岐阜県益田郡に組み込まれ、飛騨地方ということになりました。

 

 

 

 

「金山町」は、昭和の面影を色濃く残す町です。

 

 

 

 

飛騨金山の造り酒屋「奥飛騨酒造(旧高木酒店)」です。享保5年(1720)創業の老舗蔵元です。

 

 

            ㊟益田郡金山町となっていますが、町村合併により下呂市金山となっています。

 

 

 

飛騨川(益田川)は、電源開発が進んで、いくつものダムが造られています。そのうちの一つ「大船渡ダム」です。川幅いっぱいに11門のラジアルゲートが並びます。中部電力が管理する発電専用ダムです。提高が13mと低いため、堰堤と呼ぶべきか。

 

 

 

 

道は一旦右、旧道に分かれます。

 

 

 

 

大船渡ダム湖の対岸、紅葉が進んでいます。この山の麓を高山線が走ります。「撮り鉄」のナイススポットの一つとされます。

 

 

 

旧街道らしい町並みが残っています。

 

 

 

 

 

明治3年建築の「加藤家住宅」です。時代を伝える歴史的建造物です。

 

 

 

 

類焼を防ぐ防火壁もあります。

 

 

 

 

大正末期まで、生糸とお茶問屋を営む商家でした。

 

 

 

 

しばらく進むと「加藤素毛記念館・霊芝庵」がありました。この地で生まれた先人の生家を建て替え、記念館としてオープンしたものです。

 

 

 

 

「加藤素毛」ってだれ?…てことですが、残念ながらほとんど世に知られていません。もちろん私も知りませんでした。

 

「加藤素毛」は、この地飛騨国増田郡下原村で、文政8年(1825)加藤三郎右衛門雅文の次男として生まれ、名は雅英といいます。生家の加藤家は、下原村他17ヶ村の大庄屋で、苗字帯刀を許され飛騨の五大老の一つに数えられた旧家でした。代々俳句を素養とし、累代が「素」の字を冠した俳号を持つ家系で、風雅を愛するにふさわしい環境で育ちます。

 

安政6年(1859)山岡鉄舟を頼って江戸へ。そこで幕府御用達伊勢屋の手代となり、万延元年(1860)日米修好通商条約批准書交換のための幕府随行員77名の一人として、ポーハタン号で品川沖を出航したのです。ハワイ・サンフランシスコをへて首都ワシントンで米国大統領と謁見し、条約の批准書の交換を行い、大役を果たします。一行はフラデルフィア・ニューヨークなどをめぐり、軍艦ナイアガラに乗船、南アフリカ喜望峰を周り、インド洋・ジャワ・香港をへて無事品川に帰国したのです。

 

当時世界一周を果たした日本人はなく、この壮挙は国内で大いに話題になったそうです。素毛は筆まめで、254日間にわたる周海3万里の行動・風文等の見聞をすべて日記・俳句・スケッチに克明に描き残し、帰国後は各地に招かれ、珍しい土産品を示しながら「爽快にして流水のごとし」といわれる弁舌をもって面白おかしく異国の模様を語り歩いたといいます。

 

 

 

 

素毛が帰朝みやげに記念品として配った木版色紙画「萬里廼空」です。

 

       亜墨利加華盛頓の都に在りし頃

       亜人風船といへるものに御して蒼天に

       飛揺せしを見て帰朝の後其形ちを

       真宝老師の筆に乞ひつたなき一句を

       のせて海内の知己に贈るになん

 

       月ならて 風船高し 夕まくれ

 

                   斐太 素毛

 

 

 

生涯独身を貫き、風月を友とした人で、その学才は水戸の藤田東湖に匹敵するほどの文化人だったそうですが、政治的には全く関与せず、一介の野人として異国文化の紹介に努め、文明開化に寄与し、明治12年(1879)55歳でその生涯を閉じます。