「御鮨(岐阜)街道」は歩き終えましたが、その周辺を散策しています。

 

 

岐阜城を見上げる金華山の麓に「岐阜公園」があります。ここは戦国時代の「斎藤道三」や「織田信長」の居館があったところです。

 

元々このお城は、鎌倉時代に砦が築かれたとされます。この城が歴史に登場するのは、天文8年(1539)斎藤道三が入城し、ここに居住したことにはじまります。当時は「稲葉山城」と呼ばれ、城下は「井之口」と呼ばれていました。道三は息子義龍に家督を譲り剃髪入道しますが、その義龍との不和から争いとなり、長良川河畔の戦いで戦死します。死に当たり美濃を信長に譲るとの遺言を残したとか。

 

道三の死後、信長は「国譲り状」を大義名分にして、舅(信長の正室濃姫の父)の仇を討つとして美濃に進入しますが、斎藤義龍は、信長の想像以上の戦上手で、家臣の掌握にも優れ、政治にも卓越した能力の持ち主だったようで、道三時代よりも政情が安定して、信長は攻めあぐねたのです。

 

しかし、永禄4年(1561)義龍が35歳で急死し、その子・龍興が跡を継ぎますが若干14歳でした。竹中半兵衛の稲葉山城奪取事件なども起き、斎藤家の威光は日に日に薄らいでいったのです。

 

小牧城を築き、美濃攻略の起点とした信長は、永禄10年(1567)斎藤氏の有力家臣であった稲葉一鉄、氏家木全、安藤伊賀守の美濃三人衆を味方に引き入れ、木曽川を越えて稲葉山城に殺到したのです。

 

この戦いで木下藤吉郎(後の秀吉)が稲葉山を登り、城の背後に廻り一番乗りしたとされます。龍興らはついに降伏、長良川を船で下り、伊勢長島に退きます。ここに10年に及ぶ攻防のすえ、稲葉山城はついに落城したのです。

 

美濃を平定した信長は、「井之口」という地名を「岐阜」と改称しました。それに伴い稲葉山城も「岐阜城」と改めました。よく考えてみると、「岐阜」って難しい地名ですよね。名古屋にある正秀寺を開山した「沢彦宗恩和尚」が、中国・周の時代の故事にならい「岐山」「岐陽」「岐阜」という三つの名を提案し、信長が「岐阜を選んだとされます。

 

信長が岐阜に入ったときは34歳でした。いよいよ天下統一の第一歩を踏み出します。岐阜城下町は斎藤道三が造り上げた井之口城下町を、信長が発展させたものでした。金華山麓の信長居館(道三の元居館)とその前面の武家屋敷が行政の中核をなし、それに続いて町人町が造られていました。岐阜町は、信長の「楽市楽座令」により、全国から人や物が集まり、大いに繁栄したと伝えます。

 

永禄12年(1569)、キリスト教の保護と布教の許可を得るため信長(岐阜)を訪れたポルトガルの宣教師・ルイス・フロイスの著書『日本史』による岐阜町についての記述によれば…「人々が語るところによれば、8千ないし1万人の人口を数えるとのことであった。…(中略)…同所では取引や用務で往来する人がおびただしく、バビロンの混雑を思わせるほどで、塩を積んだ多くの馬車や、反物、その他の品を携えた商人たちが諸国から集まった」…と記しています。

 

 

 

 

「信長居館跡」といわれるところがあります。かなり広く、いまだに発掘中です。

 

 

 

 

道三時代の遺構と重層しているようです。

 

 

 

 

居館が、どのような建物群だったのか、図面一つ、絵図一つないようです。多くの武将が集まっただろうにと思うのですが、残された記録がないというのも不思議です。

 

先のルイス・フロイスの記述によれば…「巨大な石垣、劇場のごとき大きな家屋に驚愕し、クレタ島に栄えた古代文明クノッソス宮殿のような迷宮のような複雑な構造」…と驚いています。

 

「居館は4階建てで、1階は舞台のような大広間、2階には家族の居室があり、美しい襖でいくつかの小部屋に仕切られていた。3階は閑静な茶室、4階からは岐阜町が展望できた。庭には白砂で敷き詰められた池があり、なかには美しい魚が泳いでおり、池の中の小島には、四季の花がいっぱい咲いていた」…と克明に記しています。

 

 

 

 

 

それでは「岐阜城」に登城します。岐阜公園からロープウェイが山麓近くまでかかっていますが、今回は歩いて登城します。金華山に登るにはいくつかの登山ルートがありますが、今回はあくまで「登城」ですから、「七曲りコース(図④」を登ります。

 

この道はいわゆる「大手道」で、道三も信長も多くの武士も登城した道です。尾根道に造られた整備された道ですが、山頂のお城まで約1時間です。

 

 

 

 

岩場で人の手で削った痕や、当時の道の縁に積まれた石なども見ることができます。時代を経て路面にこれだけの段差ができていることがわかります。

 

 

 

 

山頂へ六丁の「丁石」です。ここでは登っていくほどに減るカウントダウンしています。登山などでは六合目~胸突き八丁などと登るほどにカウントアップするのが普通です。

 

 

 

 

「天下第一の門」に到着です。

 

 

太閤秀吉の馬印「千成びょうたん発祥の地」とあります。藤吉郎(後の秀吉)は蜂須賀小六らと僅か7名を従えここまで進入、薪小屋に火を放ち、この時城兵を倒した槍先に、腰に下げていた瓢箪を結び付け、槍を振り回しながら勝鬨を挙げたといいます。以来、ひょうたんが秀吉の馬印となったとされます。

 

 

 

 

「二の丸門」に到着です。ここに祀られている「閻魔王」は、4代目守護職土岐頼康が、「革手城」築城時に建立したものです。昭和50年ここに遷されました。

 

 

 

 

 

「岐阜城」は、かって「稲葉山城」と呼ばれていました。山頂に初めて砦を築いたのは、鎌倉幕府の執事であった二階堂山城守行政と伝えられます。戦国時代斎藤道三の居城でもありました。

 

「岐阜」を天下に知らしめたのは、永禄10年(1567)8月、信長によってでした。信長はこの城を攻略、美濃を平定するとともに、地名を「岐阜」と改め、天下統一の本拠地としたからでした。

 

 

 

 

天正4年(1576)安土城に移り、いよいよ天下を目前とした天正10年、本能寺の変により自刃。天下取りの夢は消え、その生涯を終えます。

 

信長以降の岐阜城主は、織田信忠・神戸信孝(信長の三男)・池田元助・池田輝政・豊臣秀勝・織田秀信(信長の孫)と続きます。慶長5年(1600)8月関ヶ原の合戦の前、秀信が西軍に味方したため、東軍に攻め入れられ激戦の末、落城します。そして関ヶ原の戦い後家康は廃城としてしまいます。

 

 

現在の城は、昭和31年に復興された、鉄筋コンクリート造り3層4階建ての復興天守閣(あるいは模擬天守閣)」です。

 

 

 

 

「岐阜城天守閣(復興天守閣)」に登ります。道三・信長時代どんな城だったか、はっきり記録に残っていないので、不明です。

 

ポルトガル宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』の記述によれば…「城に登ると、入り口の最初の三つの広間には、100名以上の若い家臣がいて信長に奉仕していました。私たちが到着すると信長は内部に呼び寄せて、次男茶箋丸に茶を持参させてもてなしました。ここの前廊からは美濃と尾張の大部分が眺望できます。すべて平坦な土地でした。前廊の内部にはきわめて豪華な部屋があり、塗金した屏風で飾られ、なかには千本の矢が置かれていた」…とあります。

 

 

関ヶ原の戦い後廃城となり、天守は加納城二の丸に移されたとされます。それが御三階櫓と呼ばれていたことを考えると、ここには三階建の立派な天守閣があったと推察されます。

 

 

 

 

 

美濃を平定した信長は、天下統一を目指します。足利義昭から室町幕府再興を請われ、上洛の決意を固め、戦国諸大名に文書を送り協力を求めます。

 

永禄11年(1568)9月、岐阜を発ち、上洛を拒否した近江の六角義賢を観音寺城に破り入京します。そして直ちに室町幕府を再興し、義昭を第15代将軍につけたのです。

 

義昭は信長の後ろ盾で将軍となったものの、信長の威光が高まり、政治上の実権が信長に移りだすと、信長との関係が急速に悪化、全国の戦国諸大名に信長討伐の御内書を送り、ここに信長包囲網が形成されます。

 

信玄の上洛をあてにして事を構えた義昭でしたが、天正元年(1573)敗れて都から追放され、信長に反抗した浅井・朝倉も滅びます。しかし、本願寺や各地の一向一揆、中国の毛利氏、越後の上杉氏など、依然として強い勢力を維持していました。

 

       天守閣から美濃を一望したところです。眼下に城下町と雄大な長良川を望みます。

 

 

 

↓は、永禄10年(1567)、信長が岐阜城下繁栄のため発給した「楽市楽座」の制札に書かれた「花押」です。麒麟の「麟(りん)」の字をかたどったものだそうです。麒麟は正しい政治が行われている世にしか現れない生き物と、中世日本では信じられていました。この花押を信長が用いたことは、乱れた天下を平定しようとする願望を自ら示したものと考えられます。

 

 

 

また、永禄10年11月から発給した文書に、あの有名な「天下布武」の印章を使い始めます。信長の天下統一への明快な宣言だったといってよいのではないでしょうか。

 

この「天下布武」をどう理解すればいいのでしょうかね。「天下に武を布く」と読めば、力ずくで天下統一するぞ!…ということになるのですから、受け取った者は、心穏やかではなかったことでしょう。

 

もっとも、古代中国では、「そもそも武とは、戦功を固めて戦争を止めさせるものである。したがって、止(とどめる)戈(ほこ)からという字がつくられる」とあり、戦争抑止力という意味があるとの考えもあるようです。

 

 

信長は天下統一のため、交通の要衝である安土に城を築きます。そして天正4年(1576)安土城に本拠地を移します。美濃平定から約9年後のことです。

 

 

 

信長は、中世の形骸化した権威や秩序、政治・経済を破壊し、新しい社会秩序を構築し、自己の権威と権力の絶対化を目指したと思われます。比叡山を攻撃し、本願寺と戦ったことも、古い宗教権威の破壊でした。そういう意味では英雄であり独裁者だったともいえます。

 

権威や秩序の破壊といっても、問題は将軍と天皇でした。武力で排除するのは容易であっても、将軍は武家の統領であり、天皇には権力はなくとも権威があり、滅ぼすには自己正当性がなければならないからです。

 

そこで信長は、何らかの方法で天皇を超える権威を身につけようとしたのではないかと、それが安土城築城に込められていたのではないかと思えてなりません。

 

なにしろ安土城の中心地に、地上6階地下1階の建物を建て、「天主閣」としたのですから…。

 

 

天守閣から北東方面を望みます。眼下に雄大な長良川。左遠方に雪の御嶽山、右遠方は中央アルプスでしょうか。

 

 

天守閣から東南方向を望みます。眼下には復興された隅櫓。遠方には濃尾平野が広がります。

 

 

 

 

下城は裏門にあたる「水手道(図①」を下ります。この道は城主の脱出用の道として、用意されたようです。岩場を進む道です。

 

 

 

 

さらに下ると、丸山というちょっとした平坦地に出ます。旧伊奈波神社の旧跡地で、「烏帽子岩」という磐座がありました。斎藤道三が稲葉山城を築城に当たり、神社を見下ろす形となり不敬であるとして遷したといいます。

 

伊奈波神社社伝によれば、五十瓊敷入彦命(垂仁天皇の第一子)は勅命を受けて奥州を平定するが、遠征に同行していた中臣豊益連が、その成功を妬み、先に大和に帰って「皇子には謀反の心あり」と訴えたため、嫡子と共にこの地で討たれてしまいます。

 

しかし、皇子の無実を知った景行天皇は、武内宿禰を派遣してその霊を祀ったのです。時に景行天皇14年のことでした。

 

 

 

 

約1時間で麓の岐阜公園に着きました。三重搭付近は、遺跡発掘中で近づけません。

 

 

 

 

 

お昼時間もとっくに過ぎ、岐阜公園近くにある「バーミヤン」で、遅めの昼食です。

 

「魚翅砂鍋飯(菜の花とタケノコのふかひれ入り土鍋ご飯)」です。コクのある餡で炊きこまれた美味しいご飯でした。そしてお替わり自由のスープが、街道・山歩きで渇いた五臓六腑にしみわたり、お替わりを何度もしてしまいました。