中部縦断歩きをリメイクして綴っているのですが、思わず「美濃路」に分け入ってしまい、垂井まで歩いてしまいました。

 

 

 

 

美濃路の途中「四ツ家追分」から分かれ、「岐阜街道」に進みます。岐阜に向かいますから「岐阜街道」ですが、岐阜の人から見れば尾張に向かうわけですから「尾張街道」と呼ばれます。

 

美濃路の「四ツ家追分」です。岐阜街道は、ここを右に曲がります。

 

 

 

 

ここから岐阜町までが「岐阜街道」です。追分でしたからそれなりの旅人が行き交い、茶屋も数軒あったようです。

 

 

 

 

ここからしばらくはJR東海道線を左に見ながら進み、工場などもあって旧街道の面影は残っていません。「岐阜街道」は、一宮・黒田と愛知県内を進み、木曽川を渡って笠松そして加納宿、さらに岐阜町に至る街道でした。天正年間織田信雄によって一部が整備され、さらに江戸時代になって尾張藩によって整備されました。一宮と笠松に宿場が置かれましたが、幕府管轄下の街道のように、本陣や脇本陣を置くほどの宿場ではありませんでした。

 

 

 

このあたり、古くからの主要道路で、「鎌倉街道」でもありました。そんなこともあって大きな寺院がいくつかあります。

 

その一つ「阿弥陀寺」です。このお寺は古くは真言宗のお寺として創建されたのですが、戦国時代初期、蓮如上人の教えに帰依し浄土真宗に改宗しています。戦国の世、尾張地方の農民の多くが真宗の教えに帰依し、一向一揆に加わったため、信長に焼き討ちされます。その後復興し、東本願寺の重要な地方寺院となっています。

 

 

 

 

このあたり。古くの条里制の名残りでしょうか、碁盤目のような区画になっています。鎌倉街道時代の「下戸の駅(うまや)」があったところとされます。

 

 

 

 

街道沿いに立派なお屋敷がありました。

 

 

 

 

少し街道から入ったところに「下津(おりづ)城跡」があります。城を偲ばせるものは何もなく、石碑が建てられているのみです。

 

室町時代、尾張守護代・織田敏廣の居城だったところです。永享4年(1432)将軍足利義教も泊まったという尾張の中心のお城でした。

 

尾張織田家は、応永5年(1398)尾張守護職斯波義郷の時代に、越前織田の庄より守護代として織田常松が弟・常竹とともに入国したのが始まりとされます。

 

時が移って宝徳3年(1451)常松にかわって織田敏廣が城主となりますが、斯波氏の相続争いに巻き込まれ、織田家でも相続争いが起こり、文明8年(1476)分家筋の弟・敏定(織田大和守)に敗れ、逃げ落ちて岩倉城を築き居城とします。その争いでここ下津城は焼失、守護所は清洲城に移り、そして尾張の中心は清洲に移ったのです。

 

織田信長は、清洲織田家の家臣であり分家であった織田信秀の嫡男として那古野城(勝幡城説も)で生まれ、天文20年(1551)父の死去にともない家督を継ぎます。以降様々な活躍によって尾張を統一し、美濃を略し、本格的に天下を目指します。時に信長33歳の時でした。

 

 

 

 

下津城跡から一宮を目指します。

 

 

 

 

道は二股に別れ、左に進むのですが…

 

 

 

 

 

そこに「赤池一里塚跡碑」「明治天皇御巡幸記念碑」が建っています。

 

 

 

 

 

大江用水を渡ってしばらく、左に街道をそれて「妙興寺」を訪ねます。貞和4年(1384)尾張国中島城主・中島蔵人の次男・滅宗宗興が、父母報恩のため創建。伽藍が完成したのは貞治4年(1365)のことでした。この間足利義詮の祈願所となり、後光厳天皇の勅願所となっています。

 

南北時代には尾張の北朝勢力の拠点として隆盛し、室町時代からは「諸山(五山・十刹の下の寺格)」として優遇されました。

 

伽藍配置は、勅使門・放生池・三門・仏殿を南北に一直線に配し、総門をやや東に寄せた造りで、鎌倉期の禅宗様配置の典型とされます。

 

明治に入って勅使門を除き、火災によって伽藍を焼失します。

 

 

 

 

室町時代に建立された「勅使門(重文)」です。創建当初の姿を今に伝えます。

 

 

 

 

この地は室町末期の剣聖「上泉伊勢守・信綱」が、剣禅一致の精神を会得するため滞在、修行に励んだところとされます。信綱は「新陰流」開祖で、「無刀取り」発祥の地とされ、弟子・柳生宗厳がその無刀取りを完成させたと伝えます。無刀取りとは、素手で相手の刀を取る技のことです。新陰流は各地で伝承され、柳生十兵衛などの天才剣士を輩出しました。

 

 

「三門」です。その奥に…

 

 

 

 

 

「仏殿」です。