中山道武州路歩きは、「鴻巣宿」を行きます。

 

 

 

 

「鴻巣宿」は、江戸から7番目の宿場です。慶長7年(1602)に、この先の本宿村の宿場を移したのが始まりです。天保14年(1843)の調べでは、本陣1軒・脇本陣1軒・旅籠58軒の宿場でした。

 

 

 

 

街道を進みますと、右手に浄土宗のお寺「勝願寺」があります。

 

 

 

仁王門は大正9年に再建されたものです。

 

 

 

このお寺は、鎌倉時代に別のところに建てられたお寺ですが、天正年間にこの地に再興されたものです。徳川家康は、鷹狩を好み、鴻巣に御殿を建て、足繫く通ったといわれます。文禄2年(1593)のこと、この寺を訪ね、時の住職不残上人の学識に深く感銘し、様々なものを寄進します。そして将軍家の家紋「三つ葉葵」も許されます。軒丸瓦や仁王門に見ることが出来ます。また、腹心の牧野家・伊奈家に檀那になるよう勧め、勝願寺の地位を安泰にします。

 

 

 

境内にいくつかの墓があります。向かって右から

 

真田小松姫の墓…徳川四天王の一人として名高い本多忠勝の娘で、

            家康の養女となり真田信幸(信之)の妻となります。

            関ヶ原の合戦前夜、上杉討伐に出ていた真田昌幸

            ・幸村が西軍につき、信幸が東軍に袂を分かち、

            沼田城に立ち寄った義父(昌幸)を、甲冑に身を固め

            城門を固く閉じて信幸不在の沼田城を守った話は

            有名です。

 

真田信重の墓……信幸の三男。鴻巣で病死。

その室の墓

仙谷秀久の墓……秀吉の家臣で淡路洲洲本城主。その後小田原攻め

            の功績で小諸城主となります。その後家康に仕え

            慶長19年(1614)江戸出府の帰路鴻巣で病死します。

 

 

 

 

 

街道沿いに人形店が点在します。鴻巣は江戸時代より雛人形の産地として広く知られてきました。江戸の十間店、武州越谷とともに関東三大大雛市として繁盛したそうです。「鴻巣雛」は、今から380年程前の寛永年間、日光東照宮造営にかかわった京の人形師・藤原吉圀という人物が住みつき、雛人形を作ったのが始まりと伝わります。江戸時代末期、鴻巣人形が増大し、江戸の雛職人を多数引き抜いたことから、訴訟沙汰も起きたとか。

 

 

 

 

雛人形店の一つ「広田屋」

 

 

 

 

 

英国サミットのおり中曽根首相から英国王室に献上された親子獅子です。

 

 

 

 

都市化が進み、何の変哲もない街道をひたすら進みます。

 

 

 

 

 

元治元年創業の熊谷市を拠点とする和菓子屋「梅林堂」です。

 

 

 

 

 

街道をさらに進みますと右側に「東間浅間神社」があります。浅間塚(富士塚)上に鎮座しています。

 

 

 

 

 

さらに進み、左に少し入ったところに「多聞寺」があります。

 

 

 

 

 

万治4年(1661)開基の真言宗智山派のお寺です。

 

 

 

 

 

境内に樹齢200年の「無患子(むくろじ)」があります。鬼を追い払い,患いをなくすと言い伝える木です。

 

 

 

 

 

この実が羽根つきの玉となる実です。昔は石鹸がわりに使われたとか。

 

 

 

 

 

このあたりは、北本市・本宿といい、江戸時代初期の中山道の宿駅として整備されましたが、文禄年間(1592~96)に宿場間の距離不均衡を是正するといった理由で、現在の鴻巣に移されました。以降このあたり「元鴻巣村」と呼ばれましたが、元禄年間になると、元々の宿場だったといことから「本宿村」と呼ばれるようになったとか。

 

 

 

 

 

立派なお屋敷がありました。ここからしばらく進みますと「桶川宿」です。