「塩尻宿」は阿禮神社の祭りで賑わっていました。
阿礼神社のことは、昨日記事にしました。1時ごろだったでしょうか、社務所でお神酒をいただいていると、地元の若衆が「4時過ぎに各町内の山車が7台揃うのだが見ていかんか、それはそれは荘観だよ」と…「そんな時間まで無理です」というと…「では我が町内の山車だけでも見てったら」というわけで、宮本町の山車を見せてもらいました。この祭りでは山車のことを「舞台」と呼ぶのだそうです。
そりゃもう素晴らしいものでした。彫り物といい、造りといい、まさに動く芸術品でした。あまりにも大きくて全部お伝え出来ないのが残念です。
阿禮神社の例大祭に曳き揃えされる山車ですが、宮本町の山車の彫刻類は仏教的要素が強いように思いました。
いよいよ町内曳き廻しです。町内をくまなく回った後に、阿礼神社境内に曳き揃えです。重い山車を若衆や子供が曳き廻し、山車の上では若衆が飛び跳ねます。大人も子供も、老いも若きも一体となって祭りを楽しんでいます。まさに「舞台」です。
お囃子の曲調が大きく変わりました。 ♪タタタターン タタタターン タタタンタンタタタンー♪
うん??聞いたことある…ええッそんなぁ~
横笛・太鼓が演奏し、若衆が山車の上で歌い踊る…信じられない光景です。今どきの茶髪の若い衆が、こんな忘れ去られた歌を歌うか⁉…と一瞬思ったのですが、しかし考えてみれば今に始まったことではなく、祭りの中で演目として引き継がれているのかもしれません。「金一封」が奉じられた家の前で、希望する演目で「家内安全・延命長寿」を願って演じているのかもしれません。
急ぐ旅ではありませんが、中山道を進まなくてはなりません。「塩尻宿」を進みます。
ここは東に江戸、西に京都へと続く中山道を軸に、善光寺街道・三州街道が交差する人と文化が交流する宿場として栄えました。中山道の中でも最も旅籠の多い宿場として賑わったところです。
天保14年(1843)には、75軒の旅籠があったそうですが、明治15年の大火によって、本陣はじめ宿場の大部分が焼失してしまいました。
「三州街道」への別れです。伊那を通って三河に至る道で「伊那街道」「中馬街道」などとも呼ばれ、太平洋の海産物や塩を運んだことから「塩の道」とも呼ばれました。
そうそう「塩尻」の地名の由来は、日本海側からの北塩と、太平洋側からの南塩のぶつかり合う終点という説があるようですが、定かではありません。
「小野家住宅(重文):写真右」は、明治15年の大火をまぬがれた建物の一つです。
天保7年(1835)に再建されたもので、屋号を「いちょう屋」と称し、塩尻中心部のこの場所で旅籠屋を営み、同時に農地経営を大規模に営んでいたといわれます。
塩尻宿内は祭り一色。上町の山車曳き廻しです。
「永福寺」は、塩尻宿の東の出口付近にある高野真言宗のお寺です。
この「山門」は、立川流2代目の弟子であった立木音四郎種清によって、明治29年に建てられました。音四郎は各地の神社仏閣の建築と彫刻にあたり、数多くの名作を残しているそうです。
「観音堂」は、入母屋造り向拝付き茅葺箱棟です。元禄15年(1702)木曽義仲信仰の馬頭観音を本尊とする朝日観音堂でしたがその後焼失し、安政2年(1855)立川流2代目・立川和四郎富昌が再建中、不慮の死を遂げたとか。3代目富重によって完成。
























