近江八幡の街をめぐります。
近江八幡の観光案内所「白雲館」に立ち寄りここで街めぐり「パスポート」入手です。この建物は、明治10年(1877)に建てられた「旧八幡東小学校」です。八幡商人(近江商人)たちが子供たちの教育充実を図るため、当時のお金で6千円の建築費のほとんどを寄付したとされます。先人の残した歴史的遺産ですが、八幡町役場に転用され、現在は観光案内所です。国登録有形文化財となっています。
近江商人発祥の地は、「日野」「五個荘」「高島」そしてここ「近江八幡」とされます。活躍時期や取扱商品は色々ですが、ここ八幡商人は、近江商人の中でも早くから活躍しました。
豊臣秀次が八幡城を築き、本能寺の変で主なき城下町となった安土の町を移し、八幡城下町を誕生させると、安土城下の商人や湖東の商人の流れをくむ人々が移住し、八幡の商人町が構成されました。この伝統ある商人の血を受け継いでいることに加え、信長や秀次が打ち出した「楽市楽座」や「諸役御免」などの先導的な商工政策と交通の要衝に位置する八幡の地理的環境は、八幡商人の活躍を絶対的なものにしたのです。
八幡商人の活躍地は日本各地に及びましたが、中には朱印貿易として安南(ベトナム)へ渡航した西村太郎右衛門やシャム(タイ)と交易したシャムロ屋勘兵衛なぢ、海外で活躍した商人もいました。江戸城築城時には、すでに日本橋通りに「西川甚五郎」「伴伝兵衛」「伴庄右衛門」などの八幡商人が軒を連ねていたといいます。
八幡商人は信用第一とし、物の不足に便乗した値上げなどは厳しく戒め、人々から愛され必要とされる商いを心掛けたとされます。また橋の架け替えや神社仏閣への寄進も怠ることなく、地域貢献を忘れることはなかったといいます。
そんな八幡商人たちが住んだ地域は、格子戸や見越しの松などが並び、「国重要伝統的建造物群保存地区」となっています。
「旧西川家住宅」は、国重要文化財です。内部も公開されています。
近江商人の伝統的建物群が色濃く残るところですが、町のそこここに洋風の建物も見られます。これを手掛けたのが「ウィリアム・メルレ・ヴォーリズ(1880~1964)」です。明治38年滋賀県立商業高校(現八幡商業高校)の英語教師として招かれ、アメリカから来日しました。日本人を妻としそして日本に帰化するとともに、建築家としてもその才能を発揮し、全国に約1600にも及ぶ建物の設計を手掛けたとされます。建築設計家として成功をおさめましたが、本来の目的であるキリスト教の伝道に熱心に取り組むとともに、結核患者の治療を目的とした、近江サナトリアム(ヴォーリズ記念病院)を建設、さらに図書館や、近江兄弟者学園の設立など、広範囲にわたって活躍し、ここ近江八幡をこよなく愛した人物です。
大正9年(1920)「近江兄弟社」を設立し、私たちになじみの深い家庭常備薬「メンソレータム」の日本でのライセンスを取得し、製造販売を手掛けた人物です。後日談ですが、その近江兄弟社は、昭和49年(1974)倒産、製造販売権を返還、商標権も売却します。翌昭和50年ロート製薬が日本における製造販売権を取得、その後米国メンソレータム社を買収現在に至っています。
一方倒産した近江兄弟社は、残った製造設備などを活用し、「メンターム」と名付けた商品を製造販売しています。倒産前の会社は「メンターム」という日本独自の商標権も登録していたのです。主原料や効能はほぼ同じと思われ、容器のデザインも酷似しています。メンソレータムはリトルナースが商標ですが、メンタームはメンタームキッドが商標となっているところが違いでしょうか。
ヴォーリズが建築にかかわった建物は、日本各地にあります。先に記事にした「豊郷小学校」もそうです。キリスト教伝道者でしたから、教会はもとよりですが、学校や銀行、百貨店、公共建物から個人住宅と幅広く設計しています。主なもので明治学院礼拝堂・慶応大学青年会館・神戸女学院建物群(重文)などなど書き切れません。
近江八幡市にもいくつかありますが、これは「旧八幡郵便局」です。大正10年(1921)に竣工されたものです。スパニッシュと日本の町家造りを融合させた個性的デザインです。











