旧中山道歩きは、住蓮坊古墳を後にして、先に進み国道8号線を横切ると「八幡社」があります。どこにでもあるような氏神に見えますが、これが由緒あり、重要文化財というのも驚きです。

 

 

 

 

「八幡社本殿(重文)」です。創始は詳らかではありませんが、白河天皇の時代に源義家が奥州遠征の途次この地に応神天皇を勧請し、武運長久を願って建立したと伝えます。以降この地の守護職馬淵氏を称した佐々木一族の庇護をうけますが、元亀2年(1575)京を目指す織田信長の兵火によって焼失します。そして文禄5年(1596)再建されたのが現在の本殿です。本殿は三間社流造り総丹塗りで、桃山時代を代表する華麗な建造物です。

 

 

 

 

ちょっとした集落を過ぎると「日野川」に突き当たります。当時の日野川(横関川)の渡しは、平時は舟で川を渡し、水量が減ると川に杭を打って止めた二艘の舟の上に板を渡して作った舟橋でした。廣重描く版画にも、その様子が描かれています。

 

 

 

 

日野川を渡り、しばらく歩きますと「鏡の宿」に入ります。このあたり古い時代の東山道が重なっていたところで、平安末期より鎌倉・室町時代、宿駅としてにぎわったところです。しかし、中山道の宿場制度にははずれ、間の宿となりました。間の宿ながら本陣・脇本陣もあり、紀州公の定宿などもあったところです。

 

 

 

 

 

「伊勢街道の追分」です。「是よりいせみち ミつくち道」とあります。

 

 

 

 

「真照寺」には、万葉時代の歌人「額田王(ぬかだのおおきみ)」の父・「鏡王」が葬られています。鏡王は、鏡神社の神官で、後の壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)につきますがあえなく亡くなります。その菩提寺です。額田王は、『日本書紀』には「鏡王の娘・額田姫王」と記されていますがその出自ははっきりしません。天武天皇の妃となり十市皇女を生んだ、美人で優れた女流歌人だったといわれています。

 

  あかねさす紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや君が袖振る

 

これは天智天皇一行が、この近くの蒲生野へ薬草狩りに出かけたときの酒宴の席で詠った歌です。

 

 

 

 

その額田王の父鏡王が神官を務めていた「鏡神社」です。社伝(要約)によれば、創始は不詳であるが、主祭神は「天日槍(アメノヒボコノミコト)は、日本書紀による新羅国の王子にして垂仁天皇3年の御代来朝。多くの技術集団(陶物師・医師・薬師・弓削師・鏡作師・鋳物師など)を供に近江国へ入り、集落を成し、吾国を育み文化を広めた祖神を守る古社である。天日槍は持ち来る神宝の日鏡をこの地に納めたことから「鏡」の地名が生まれ、書紀にも「近江鏡の谷の陶人は即天日槍の従人なり」と記されている。鏡山の麓は渡来集団にかかわる地名も多く、須恵器を焼いた古窯址群も広く現存する。

 

延喜の御代には大嘗会に鏡餅を献上した里であり、「鏡路」は、「鏡山」とともに万葉の歌枕として150余首詠まれ、宮廷巫女の歌人「額田王」や「鏡王女」にも所縁の地です。

 

承安4年(1174)牛若丸こと源氏の遮那王は、京都鞍馬から奥州への途次この鏡宿に泊まり、自ら烏帽子をつけ元服します。そしてこの神社に参拝した16歳の若者は、「吾こそは源九郎義経なり」と名乗りを上げ、源氏の再興と武運長久を祈願した義経元服の地です。

 

現社殿は室町時代に再建された三間社流造り杮葺きの貴重な建物で、国重要文化財となっています。

 

 

 

 

鏡の里から西南に聳えるのが「鏡山(竜王山:383.4m)」で、龍神信仰の神秘的な山です。山頂近くには聖徳太子が創建したという「雲冠寺」があったところでもあります。『万葉集』にも詠われた鏡山、聖徳太子や伝教大師(最澄)ゆかりの地でもあります。

 

吾妹子が鏡の山のもみぢ葉の うつるときにぞ物はかなしき  大伴家持(万葉集)

鏡山君に心やうつるらむ いそぎたゝれぬ旅衣かな        藤原定家(新古今和歌集)

 

 

 

 

「西光寺」は、伝教大師(最澄)が夢のお告げにより鏡山12峰の一つ星ヶ峰の麓に建立したものです。嵯峨天皇の勅願寺で、僧坊も300あったといわれ、源頼朝も度々宿泊しています。また足利尊氏が後醍醐天皇に帰順を表明したところでもあります。しかし、信長の兵火により一山ことごとく焼失し、再興されることなく廃寺となっています。

 

その名残をとどめている「宝篋印塔」です。搭の高さ210㎝、2段の基壇を築き、燈身・笠・相輪を積み重ねています。石の四隅に梟の彫刻は、他に例がなく珍しいもの。鎌倉時代後期の作とされ、国重要文化財です。

 

 

 

 

西光寺の鎮守、八柱神社の「石燈籠」です。高さ2.8m、八角柱の燈籠は珍しく、笠を持ち火袋には四仏が彫られた優美な意匠を凝らしたもので、国重要文化財です。

 

 

 

 

中山道近江路を先に進みます。街道から少し左に入ったところに「平家終焉の地」の塚があります。平家の滅亡は「壇ノ浦の戦いに敗れた時」というのは、歴史的事実です。しかし平家最後の総大将平宗盛と子、建礼門院・清盛の妻の兄平時忠らは捕らえられたのです。

 

壇ノ浦の戦いに勝利した後、義経は兄頼朝から疎まれるのですが、義経主従は平宗盛父子を連れ、鎌倉に向かいます。しかし兄頼朝との面談叶わず空しく帰ります。帰路京まであと一日ほどのこの地で、宗盛と子・清宗の首を打ち、せめてもの配慮で父子の胴を埋め塚が建てられたのです。この塚の前の池で首を洗ったことから「首洗い池」と呼ばれ、またあまりにも哀れで蛙も鳴かなくなったという。そんなことから「蛙鳴かずの池」とも呼ばれているとか。

 

中山道のこの一帯は、牛若丸が奥州に落ち延びるとき、急ぎ元服した地であり、平家を滅ぼすため上洛した道であり、大勝利し凱旋するも頼朝に疎まれ、空しく鎌倉を往復した道でもあります。なんという歴史の皮肉なことでしょうか。

 

 

 

さらに進み、街道から大きく外れますが、国宝の社殿ということで訪ねます。

「大笹原神社」は、寛和2年創建され、室町時代の応永2年(1414)に再建されたものです。三間社入母屋造り檜皮葺で彫刻が実に素晴らしく、さすが国宝です。

 

 

 

境内社「篠原神社」は、応永32年(1425)建造されたもので、「餅の宮」とも呼ばれています。このあたりは鏡餅発祥の地といわれ、平安時代より東山道の宿駅(篠原)でした。その東山道を行き交う旅人の保存食として「篠原餅」が有名だったそうです。

 

 

 

境内にある池は「寄倍(よるべ)の池」です。昔水不足のおり、神輿を二基沈めて雨乞いしたところ、その後いかなる日照りが続いても、枯れることなく満々と水を湛えているということです。

 

 

 

 

大篠原の集落を進みます。

 

 

 

 

大篠原最大の用水池「西池」です。昔、雄略天皇の御代(413年頃)近江国に48の池を掘らせた時の一つとされます。この長い堤が『源平盛衰記』に出てくる「篠原堤」との説もあるようです。遠くに見える山が「近江富士」といわれる「三上山」です。