中山道美濃路歩きは、御嶽宿に入ります。

 

 

「御嶽宿」は、江戸から49番目の宿場です。関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、直ちに宿駅伝馬制へと着手し、慶長7年(1602)には中山道筋でもいち早くここ御嶽宿に「伝馬掟朱印状」を下したことから、ここを重要な拠点と考えていたことがうかがえます。

 

「中山道みたけ館」は、脇本陣跡に建てられた御嵩町郷土館です。郷土の歴史に関する学習拠点です。地名は「御町」。宿場名は「御宿」です。

 

 

 

 

「御嶽宿本陣」は、代々野呂家が務めてきました。明治・大正と二度にわたり建て替えられていますが、江戸期の風格を感じさせる門構えを残しています。

 

 

 

 

「商家・竹屋」は、江戸時代末期本陣を務める野呂家から分家し、金融業をはじめ繭・木材・綿布などを取り扱い、後年にはアメリカ製の自動車販売、あるいは佐渡金山への投資など幅広く商売を手掛けたとされ、いわば「総合商社」のさきがけでした。

 

主屋は明治10年(1877)頃の建築とされ、その佇まいは商家にふさわしい質素で風格のある造りがなされ、江戸時代の建築様式を色濃く残す建物です。

 

 

 

 

御嶽宿は、宿場と同時に「願興寺(蟹薬師)」の門前町として栄えました。弘仁6年(815)伝教大師によって創建されたといわれる天台宗の古刹です。本堂と24体の仏像は、国重要文化財に指定されています。

 

 

 

 

中山道美濃路を進みますと、「尼ケ池」と名付けられた小さな池が田圃の中にあります。昔はもっと大きなだったことでしょう。正暦4年(993)一条天皇の皇女が、都を追われ東国行脚の途中この地に至り、仏の道に入るため剃髪し、行智尼と名乗って朝夕伝教大師の薬師如来を礼拝したのです。すると長徳2年(996)この尼ケ池より無数の蟹の背に乗って1寸8分(55㎝)の薬師如来が出現しました。この尊像を願興寺本尊薬師如来の胎内に納めたと伝えられます。爾来願興寺のことを「蟹薬師」と呼ぶようになったのだそうです。

 

 

 

 

伏見宿には、御嶽宿開宿から遅れること90年後の元禄7年(1694)に土田宿廃宿に伴い開宿したところですが、往時を偲ぶものもありません。

 

「是より東尾州領」の榜示杭が時代を感じさせます。

 

 

 

伏見宿~今渡りの渡し場までは、開発が進みなにもありません。ひたすら歩いて一気に木曽川河畔につきます。木曽川はこの橋の上流部で飛騨川か流れ込み、川幅も広くなっています。木曽川左岸の船着き場です。ちなみに左岸が「今渡の渡し」、右岸が「太田の渡し」です。

 

  木曽の桟 太田の渡し 碓井峠がなくばよい…と唄われたところです。

 

 

 

 

ここ太田から下流犬山城あたりまでの木曽川は風光明媚なところで、ドイツのライン川になぞらえ「日本ライン」と命名されているところです。ライン下りの船が通り過ぎます。もっとも今は営業休止しているかもしれません。