大湫宿から細久手宿~御嶽宿に進みます。道が地域の繁栄と深いかかわりを持つことは、昔も今もかわりがありません。日本の歴史の中で、道にかかわる大きな変革は、東山道とか、鎌倉街道とか幾度かありました。

 

中でも江戸時代、家康による五街道の設定と宿駅制度。明治維新以後の鉄道の発達。そして現代の車社会の出現による道路の整備は、最も大きな変革でした。

 

こうした変革が及ぼした人の流れの変化は、そのまま町の栄枯盛衰の歴史でもあります。常に歴史の変化に適応し繁栄し続けるところもあれが、平和な時代に観光地として復活したところ、歴史の藻屑と消え去ったところなど、さしずめ人生の縮図にも似たところがあります。

 

大湫宿~細久手宿~御嶽宿を結ぶ中山道も、忘れ去られた道の一つでしたが、東海自然歩道に組み込まれ、蘇ったところでもあります。

 

 

 

大湫宿からしばらく歩くと、大きな岩が二つあります。「二つ岩」と名付けられています。廣重描く版画にも、描かれています。

 

 

 

 

 

道は難所の一つとされる「琵琶峠」に入ります。500m以上にわたる石畳道も現存します。

 

 

 

琵琶峠は、標高558m。江戸に降嫁の皇女和宮も、「住み慣れし都路出でてけふいくひいそぐもつらさ東路のたび」と詠んでいます。

 

 

 

峠道の途中に「八瀬沢一里塚」です。木は植わっていませんが、往時のままです。

 

 

 

 

峠道を下り山間の道を進むと「細久手宿」です。中山道開設時にはなく、後に追加された宿です。最盛期には本陣・脇本陣各1軒、旅籠24軒を数えたといいますが、度重なる大火もあったことか、今は見る影もなく寂れています。そんな中にあって、ただ一軒、現在も旅館として営業しているのが、尾州家本陣「大黒屋」です。往時を知る貴重な遺産です。

 

 

 

 

御嶽宿に進みます。「秋葉坂の三尊石窟」です。右・三面六臂の馬頭観音立像。中央・一面六臂の観音坐像。左・風化の進んだ石像が安置されていました。

 

 

 

土岐氏の守護寺「開元院」です。山門は、享和元年(1801)に建築され、古刹にふさわしい風格と優美さを備えています。

 

 

 

 

十本木立て場跡近くに、古びた建物が建っています。かっては茅葺き屋根だったことでしょう。この建物は、広重の版画「木曽海道六拾九次之内・御嶽」のモデルとなった場所と思われます。

 

 

 

 

御嶽宿では、当時の庶民の旅でおおく利用された「木賃宿」を中心に、囲炉裏を囲んだ和やかな会話が聞こえてきそうな様子を見事に描写しています。そして作品のモデルとして選んだ場所がこのあたりだったと思われます。廣重の作品の中に「木賃宿」が登場するのは珍しく、軒下にいる二羽の鶏もまた作品に描かれることは珍しいことです。

 

 

 

 

さらに進むと「聖母マリア平和の像」なるものが建てられています。この近くの道路工事中に、地中から数点の十字架を彫った自然石が発掘されたのです。ここにはもともと五輪塔が多数あったところです。この仏教墓地を利用したキリシタン遺跡であったと思われます。幕府の弾圧の中発覚もせず、この地に多くのキリシタン信者がいたものと考えられます。そんなこともあって地元の人々の浄財によって聖マリア像が建立されたようです。

 

 

 

 

発掘された遺物は、「中山道みたけ館」に展示されています。

 

 

 

 

山道を下り降りると平地に出ます。中山道も、ここからはほぼ平坦な道となります。「和泉式部廟所」なるものがありました。平安時代の女流作家・和泉式部は、和歌を愛しまた恋多き女性でした。心赴くままに旅をし、御嶽のあたりまでやってきて病に倒れ、「鬼岩の温泉」で湯治するも寛仁3年(1019)この地で亡くなります。「和泉式部廟所」といわれる場所は、全国に数か所あり、その真実は定かではありません。しかし、和歌をこよなく愛した和泉式部が、この地にやってきていたとしたら、ロマンある話しですね。