この時の旅は、越前・能登・越中を廻り、越後に入っています。新潟県上越市にある「春日山城跡」に、朝一番で登ります。戦国の名将上杉謙信の居城として、今も天下にその名を轟かせています。

 

 春日山城は、石垣のかわりに自然の起伏を生かした空堀・土塁などによって、多くの曲輪を守っていました。天守閣を持たず周囲の山々に砦を築き、より大きな城としての機能を持たせた城造りで、戦国時代の山城としての特徴をよく表しています。

 

 謙信がその生涯を閉じると、天正7年(1579)養子の上杉景勝に引き継がれ、その後慶長3年(1598)に堀秀治が入ります。その堀氏が慶長12年(1607)直江津港近くに福島城を築き移ったため、城としての運命を終えます。

 

 

 

 大手道・番所あたりから見上げた本丸跡です。

 

 

 春日山城の見取り図(余湖くんのHPより)です。

 

 

 

 上杉謙信は、享禄3年(1530)越後守護代長尾為景の末子として生まれ、7歳の時林泉寺(後日記事にします)に入り、名僧天室光育和尚から文武の道を教えられます。14歳で元服し長尾景虎と名乗り、19歳で兄春景にかわり越後守護代となります。以後越後統一、信濃・関東・北陸へと出兵が続きます。永禄4年(1561)上杉憲政から「上杉」姓と関東管領職を譲られ、以降「上杉」姓を名乗ります。

 

 二度にわたり上洛し、宮廷からも信頼され、宿敵武田信玄と川中島で5回も戦っていながら、信玄に救援の塩を送るなど、領土的野心で戦をしたことはなかったといわれるほど「義」に篤い人物でした。天正6年(1578)関東出兵を前にして、突然その生涯を閉じます。享年49歳でした。

 

 

 

 

 春日山城中腹に鎮座する「春日山神社」です。もちろん上杉謙信を祀っています。

 

 

 

 千貫門跡です。三方が土塁と土手で囲まれています。

 

 

 

 空堀が残ります。

 

 

 

 登ったところが「直江兼続の屋敷跡です。大河ドラマ『天地人』の主人公兼続は、智勇抜群の名臣として知られています。上杉景勝が会津120万石となった時、米沢30万石に封ぜられました。

 

 

 

 毘沙門堂がありました。謙信は深く毘沙門天を信仰していました。毘沙門天は悪魔を降ろす神です。出陣前には必ず戦勝祈願したところです。出陣では「毘」の字の旗を先頭にかざして進みました。

 

 

 

 本丸・天守台からの展望です。

 

 

 頸城平野の展望が見事です。

                                               2011.春