旧東海道歩きは、浜松宿を目指します。

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 篠原一里塚跡です。日本橋より67里。当時の旅人は、1日10里(約40㎞)歩いたとされます。

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 神明宮です。

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 立場跡です。立場とは宿場と宿場の中間の休憩施設です。ここは立場本陣ともいわれ、大名なども休憩しました。明治天皇も御少休されたところです。

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 現在も「立場」という地名を残します。

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 名残りの松でしょうか。

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 高塚町には、スズキ本社工場があります。その一角に「スズキ歴史館」があります。当初の計画では、この歴史館に寄って、創業以来の歴史を見学するつもりでしたが、朝寝坊がたたって、断念しました。

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 領地境界の標柱が残っています。江戸時代の宝永2年(1702)高塚は堀江領でしたが、これより東は浜松領であったので、建てられた標柱です。

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 熊野神社です。由緒は詳らかではありませんが、紀州熊野神社の神官がこの地に足を留め、居を定めて奉斎したことに始まると伝えます。

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 秋葉常夜灯籠です。家康は街道の要所に常夜灯の設置を奨励しました。

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 諏訪神社です。大永4年(1524)信州上諏訪社より勧請。

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 松並木の名残りでしょうか。

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 東若林の交差点の道を隔てて北と南に向かい合ってお堂があり、二つ御堂といいます。

 奥州平泉の藤原秀衡が京に出向いているとき大病を患い、それを聞いた愛妾は京に向かいこの地で飛脚より秀衡公の死を聞き(実は誤報)、その菩提を弔うために北のお堂(阿弥陀如来)建てたのです。

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 京にいた秀衡は病も回復し、帰国の時ここでその話を聞き、愛妾への感謝の気持ちを込め、南のお堂(薬師如来)を建てたといいます。

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 一里塚跡です。江戸より66里、ここは土手のある松並木が続いていたところです。

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 八丁畷と名を残します。浜松宿も近く、大名行列はここで態勢を整えたといいます。

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 鎧橋(よろいばし)とあります。平安時代末期比叡山の僧兵が戒壇設置をめぐり鴨江寺側の軍兵がこの一帯の水田に水を張り、この橋を守り固めて戦ったので、鎧橋と呼ばれるようになったといいます。その時の双方の戦死者およそ千人だったそうです。

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 西浅田交差点です。東海道本線に合流です。

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                              2019.05.16