旧東海道を進みます。

 旧東海道を進みますと、西門前に着きますが…

 正面に回ります。

 『尾張名所図会』描く「笠寺観音」です。

            モノクロ図にイメージ着色したもの…Network2010より
 笠寺観音は、尾張を守護する「尾張四観音」の一つです。およそ400年前に、家康は尾張の国の要として名古屋城を築きました。それ以来名古屋城を中心に、四方に位置する尾張四観音が、より一層崇敬されるようになりました。その年その年の恵方に最も近い観音様に、福をもとめて多くの参詣者が集まります。

 仁王門の前にある放生池です。通称亀の池と呼ばれています。

 仁王門ですから…

 仁王像(金剛力士像)が祀られています。阿像と…

 吽像です。寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神です。

 鐘楼です。鎌倉時代に造られた梵鐘は、尾張三名鐘の一つで、大晦日に除夜の鐘の音が響きわたります。

 このお寺の歴史は古く、寺伝によれば、天平5年(733)のある日(天平8年とも)、呼続の浜に一本の浮木が漂着します。近くに住んでいた僧・善光上人は、夢の中で不思議なお告げを受け、その漂木で十一面観世音菩薩を刻み、現在の地より南約650mの粕畠の地にお堂を建立し安置し、天林山・小松寺と名付けたのです。
 建立から百数十年を過ぎ、小松堂は荒れ果てて、観音様は風雨にさらされたままになっていました。鳴海の長者に仕えていた女人が、ある雨の日、ずぶ濡れになっている観音様を見て可哀そうに思い、自分の被っていた笠を観音様にかぶせたのです。
 後日鳴海に寄った都の貴族・中将藤原兼平公がその優しき娘をみそめ、結ばれて「玉照姫」と呼ばれることとなったのです。


 この夫妻は、その巡り会わせを深く観音様に感謝し、この地に大いなるお堂を建て、そこに笠をかぶせた観音様をお祀りしたのです。そして寺の名を笠をかぶった寺=「笠覆寺(りゅうふくじ)」と改めたのです。一般に「笠寺観音」と呼ばれ、この地「笠寺」の地名の起こりでもあります。
 しかし月日をへて再び荒廃し、鎌倉時代の嘉禎4年(1238)阿願上人の発願により堂宇が建立され旧観を取り戻したのです。

 本尊は十一面観世音菩薩ですが、玉照姫の故事から「笠」をかぶっています。

 本堂手前は、平成14年に再建された「玉照堂」です。もちろん玉照姫と兼平公夫妻を祀ります。

 多宝塔には阿弥陀如来を祀ります。

「人質交換之地」とあります。家康が幼少の頃、今川の人質だったことは良く知られています。しかし案外織田家の人質として幼年時代を名古屋で暮らしたことは知られていません。
 家康は天文11年(1543)岡崎城で生誕、竹千代と名付けられます。天文16年(1547)松平弘忠(家康の父)は、岡崎を攻めようとする織田信秀(信長の父)に対抗し、今川義元と同盟を結びます。そして、弱冠6歳の竹千代を人質として差し出すことになったのです。家康波乱万丈の生涯の始まりです。
 今川家の居城である駿府へは、岡崎から徒歩で渥美半島老津の浜に出て、船で駿府を目指すという計画だったのですが、護衛の田原城主戸田康光の裏切りにあい、船は織田方の居城那古野城を目指します。
 当初熱田伝馬町の豪商加藤図書助順盛宅に2年間ほど幽閉されていました。家康は江戸に幕府を開いた後、加藤家に140余石の土地を与え、感謝の意を表しています。
 写真↓は、2012年1月に訪れた時、写したのものです。今は加藤家の末裔の御屋敷で、特に往時を偲ぶものは残っていません。

 その後、織田家の菩提寺大須万松寺(名古屋市中区)に移され、3年ほど暮らします。
 天文18年(1549)竹千代の父が没すると、今川方は2万の大軍を率い織田方の安祥(安城)城を陥落させ、織田信弘(信長の庶兄)を生け捕りにします。
 そして同年11月9日織田家に幽閉されていた竹千代(家康)と、ここ笠寺観音で人質交換され、竹千代は駿府今川義元のもとに送られたのです。

 医王殿には、薬師如来をお祀りします。

 芭蕉句碑(千鳥塚)と宮本武蔵供養碑がありました。

                               2018.12.13