会社時代の先輩に誘われ、クラブツーリズムが主催する「吉野山千本桜たっぷり約5時間滞在」ハイキングに行ってきました。昨日記事にしたように、本当はここで5時間たっぷり桜を楽しむはずだったのですが、今年は桜の咲くのが早く、滞在時間を短縮し「談山神社」に先に寄ってきました。

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 吉野は「如意輪寺」からのスタートです。吉野といえば後醍醐天皇です。後醍醐天皇は文保2年(1318)第96代天皇として即位します。そして政治を天皇親政とするため、鎌倉幕府倒幕を計り元弘元年(1331)挙兵(元弘の乱)し、笠置山に籠城します。

 鎌倉幕府は後醍醐天皇が京都から脱出すると直ちに廃位させ、皇太子量仁親王(光厳天皇)を即位させます。そして笠置山を圧倒的な勢力で攻め、後醍醐天皇は捕らえられ隠岐の島に流罪となるのです。

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 しかし元弘3年/正慶2年(1333)支持者の助けにより島を脱出し、足利尊氏・新田義貞らの支持を得て鎌倉幕府を滅亡させ、自らの退位と光厳天皇の即位を否定し、ここに「建武の新政」が始まります。

 建武の新政を開始したものの、性急な改革・恩賞の不公平・非現実的な経済政策などにより武士勢力の不満を生み、足利尊氏が離反・反旗を翻します。尊氏は楠木正成・北畠顕家らに敗れ、いったん九州に落ち延びますが、光厳天皇の院宣を得て再び京に迫ります。そして楠木正成・新田義貞らは湊川の戦いで敗れ、正成は討ち死にします。

 足利尊氏は京に入ると、光明天皇を新天皇に擁立し、建武の式目を制定。足利幕府を開設します。廃帝された後醍醐天皇は吉野に逃れ、自ら主宰する朝廷を開きます。京都朝廷(北朝)に対し、吉野(南朝)が並立する時代、つまり南北朝時代の始まりです。

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                            画像・清浄光寺蔵


 吉水神社は、元々吉水院と称し、金峯山寺の僧坊でしたが、明治の神仏分離で神社となったものです。(この写真は2004年秋)

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 書院(重文)は、我が国最古の書院建築とされます。延元元年(1336)吉野に逃れた後醍醐天皇は、ここを行宮と定めました。吉野朝(南朝)4代57年にわたる南北朝時代の悲哀の歴史がここから始まります。(この写真は2004年秋)

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 こゝにても雲居の桜咲きにけり  たゞかりそめの宿と思ふに  後醍醐天皇

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 後醍醐天皇は、各地に親王を送って北朝方に対抗しようとしますが、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、義良親王(後村上天皇)に譲位し、吉野金輪王寺で「朝敵討伐・京都奪回」を遺言して崩御。享年52歳でした。

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 如意輪寺は延喜年間(901~22)創建と伝えられ、後醍醐天皇の勅願寺とされます。現在の建物は慶安3年(1650)再建されたものです。

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 後醍醐天皇陵です。明治維新後は宮内庁に管理されています。

「唯生々世々も妄念となるべきは、朝敵を悉く亡ぼして、四海を泰平ならしめんと思ふばかりなり。…中略…之を思ふ故に、玉骨は縦令(たとい)南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」

 と病の床で綸言され、右の御手に剣を左の御手に経巻を握らせ給い、尊氏がいる京の空を睨みつけたまま崩御されたとされ、その御終焉の形を改めず、棺槨を厚くし、御座を正しうして如意輪寺の御堂のうしろの林の奥に、円丘を高くして葬り奉ったとされます。天皇の陵墓としては唯一北向きとなっていて「北面の御陵」として有名です。(この写真は2004年秋)

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                              2018.04.13