郡上街道歩きは、長良川鉄道「郡上大和」駅からですが、その前に「古今伝授の里・郡上大和」をめぐります。
 
 
 このあたりの美濃は、昔は武儀郡でしたが、平安時代に南北2つに分けられ、その際北部を郡の上部ということで、郡上郡と呼ぶようになったとか。
 
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 徳永駅付近国道156号から右折し、県道318号を進みます。「古今(こきん)伝授の里」の由来については、あとでできるだけ詳しく記事にしたいと思いますが、古今集の解釈・学説を、口伝・抄物などによって師から弟子に秘説相承の形で伝授することをいいます。
 
 
 
 水神(すいじん)神社です。祭神は、罔象女神(みずはのめのかみ)です。嘉吉元年(1441)この地は日照り続きで大干ばつに見舞われました。妙見宮の神主の娘千代は、歌一首を詠んで神に祈り捧げたところ、清水が湧きだし領民をすくったという伝説が伝わる泉です。それが長刀清水でした。
 
 堂宇は寛政4年(1792)建立。神社前にそびえる大木はムクロジで、樹齡は2~300年と推定されています。
 
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 千人塚と呼ばれる首塚です。天文9年(1540)8月、朝倉氏が攻めよせ、迎える東氏は篠脇城に詰め、石を投げ落とすなどの戦法でこれを制しました。
 「敵勢おびただしく討たれ、道を塞ぎ往来は3日通れず、討ちとりし敵の首塚いま千人塚と申す」・・『遠藤家御先祖書』
 
 しかしこの戦いで城下は荒れ果て、翌天文10年、篠脇城を廃し、八幡赤谷山へ拠点を移します。
 
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      明建神社参道の杉の巨木。「神迎え杉」と呼ばれています。
      樹齡700年余、樹高38m、周囲7m。 
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 13世紀の初め東胤行(とうのたねゆき)が下総国(現千葉県)から入ったときに、千葉氏の氏神である妙見大菩薩を勧請し、東氏の氏神として祀ったものです。
 
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 明治維新による神仏分離で、妙見宮から明神神社に改められましたが、御神体は今でも妙見大菩薩だそうです。
 
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                               2014.07.02