郡上八幡城から下城し、郡上八幡北町をめぐります。
 
 
 郡上八幡北町は、城下町である柳町、職人町、鍛冶屋町、大手町、本町を中心とした14.1ヘクタールの町家群が、統一された町家と水利施設が一体となって歴史的風致を伝える町並みとして、国重要伝統的建造物群保存地区となっています。
 
 
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 安養寺の石垣(下柳町)に沿った用水です。お地蔵様が祀られています。
 
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 安養寺の石垣の終わりのところに小さな水車小屋があります。右の樋から水が流れ、満杯となると傾いて水が流れるといった「鹿威し:獅子脅し」のような造りとなっています。この仕組みを動力として利用したのが唐石臼ですが、さて実際のところどうなんでしょう。
 
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 古い町並み、中柳町~上柳町と続きます。江戸時代このあたりは、中級藩士から下級武士の住まう町でした。
 
 承応元年(1652)の大火をきっかけに、藩主遠藤常友は城下町の大改造を図り、寛文7年(1667)に完成させます。現在の八幡町の骨格は、この時に形成されたものです。
 
 その町並みも大正8年(1919)の大火により、郡上八幡北町はほとんど焼失してしまいます。ですから現在残っている建物群は、大正時代の大火後に建てられたものです。
 
 袖壁の切妻造り2階建て、平入り一部紅殻格子、間口3間ほどのこじんまりとした民家が続きます。
 
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 2階にはめられたガラス戸が懐かしい。
 
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 辻のところに、美濃和紙のお店がありました。
 
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 上殿町に「郡上八幡博覧館」があります。大正9年に建てられた旧税務署を利用したミュージアムです。いつでも郡上おどりが楽しめるところです。
 
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 長敬寺本堂、浄土真宗大谷派のお寺です。その昔郡上を治めていたのは東(とう)氏一族でした。ここからもう少し北にある篠脇城を拠点としていたのですが、永禄2年(1559)遠藤盛数によって東常慶が滅ぼされ、12代340年続いた東氏は滅びました。東氏9代常縁は、武将であると同時に歌人でした。古今伝授の祖とされるこの東常縁については、いづれ記事にする予定です。
 
 遠藤氏によって滅ぼされた東氏ですが、その子孫が飛騨高山の照蓮寺に仮居していることを知り、慶長6年(1601)、4代城主(2代城主でもあり)遠藤慶隆が招いて建立されたのがこのお寺です。
 
 
 慶応4年(1868)江戸城開城のおり、郡上藩士45名が凌霜隊を編成、会津へ救援隊として出発、白虎隊とともに政府軍と戦いました。会津の降伏により凌霜隊は郡上に護送され、獄舎に入れられました。嘆願によりこの寺に移され、明治3年釈放されたものの、世人の目は冷たく多くの隊員は故郷を捨てて他に移住したとか。
 
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                               2014.06.14