週末追記191
おはようございます(‐^▽^‐)
ほうしゅんどうの西山です(。-人-。)イツモカンシャ
今朝は雲ひとつない快晴でありました( ̄▽+ ̄*)
9月もいよいよ最後の週末となりまして、
今年も数えることあと3ヶ月余りとなりました(ノ゚ο゚)ノ
昨日は午前中から少し寒さも感じるほどでありましたので、
とうとう施術室に電気式毛布と電気カーペットを
投入することとなりました![]()
ついこの間まで
冷房をつけていたことを思いますと、
ここに来まして一気に秋が深まったという
ことでありましょうか
まだ秋冬物の支度もしておりませんので、
しばしこれ以上の冷え込みはないことを
願うばかりであります(。-人-。)
という週末の中、
お話を少々![]()
人というものは
歴史の中で幾度となく失敗を繰り返しながら
今日があります。
それが成功だったか失敗だったかという審判は、
おおよそ後の歴史の中で下されます。
ですから、
今私たちがいる時代も
後々の人たちが歴史の審判をして
判断を下す訳であります。
更にいえば、
かつての歴史を今の私たちが
審判をしなければいけないという
ことにもなる訳であります。
審判というものは、
スポーツを見ても然りでありますが、
下された判定は大よそのことでは
覆ることはありません。
ですから、
審判は公正明大でなければなりません。
今の私たちも
当然歴史の審判を下すときは、
公正明大にして行わなければ
ならない訳でありますが、
かつての歴史を見てきましても
残念ながら全てがそのようにジャッジ
してきたかといえば
そう言いきれないところがあるように
思われます。
やはり、
これだけ多くの人が住む世の中で、
一つの物事でも多種多様な考えがあり、
それぞれ自分たちの幸せを第一に願うということ。
つまりは、
悪い言い方をすれば
私利私欲にとらわれた中で
正しい判断は果たして可能かどうか
ということであります。
そう考えますと、
この歴史の失敗の繰り返しというものは、
イコール歴史の審判のミスジャッジの繰り返し
ということになるのではないでしょうか。
しかしながら、
人から我欲を全て取り去ることは
決して出来ません。
人が生きるということは、
これだけ多くの矛盾をはらんだ中で
その矛盾と永年に対峙しなければならない
訳であります。
何故ならば、
審判する側も
審判される側も
同じ我欲をはらんだ人間だから
でありますので(^-^)/
寒くて首をすくめながら歩いても
ココロにはいつも太陽を![]()
みなさんにいつも
笑顔がそばにありますように
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