週末追記45
梅雨明けから一週間あまり
連日の猛暑日で
ギンギラギンニサリゲナク
朝の開院準備の段階から
Tシャツを汗だくにしながらの
日々でありますA=´、`=)ゞヒーハー
そんな中でありながらも、
梅雨バテ
のようになっていた
一時期に比べ、
意外なほどにバテはきておりません
ウリャー
早朝ウォーキング
&味噌汁
&養生灸
作戦が、
何気に効いているようであります(‐^▽^‐)
ところで、
人が犯した過去の罪は、
生きている間はずっと
責めを受け続けなければ
いけないのでしょうか。
また同時に、
被害を受けた方は、
生きている間はずっと
憎しみ悲しみ続けなければ
いけないのでしょうか。
言えることは、
共に消えることのないものを
背負ってしまっているという
ことであり、
これは、
当事者にしか分からない
ということであります。
だからこそ、
第3者の立場の方が、
その当事者間のことを語る場合、
生半可な気持ちで、
まして野次馬的好奇心や、
主観的な憶測で
語ることは、
一番罪深いことではないかと
思うのです。
そこに「恕(じょ)」の気持ちを持たずして、
好奇の視線で、
一時の熱病の如く盛り立てるだけ盛り立てて、
あとは知らぬ顔をする現在の状況。
「じゃあアンタ方が当事者になってみろよ」
と、新たな怒りや悔恨を生んでいるのでは、
ないでしょうか。
第3者のことを語るとき、
そこに「癒し」の心あらずして語ることは、
新たな心の傷を生み出すだけの
言葉による2次災害に他ならない。
だからと言って、
全員が見知らぬ傍観者になって、
全てのことから目を背ける行為に対して、
果たして自分は自分を許すことが
できるのだろうか。
だが、
その気持ち自体は、
もしかしたら、
単なる好奇心や野次馬根性から
派生したものであったら。。。
という風に、
考えれば考えるほどに、
袋小路に入って行ってしまいます。
唯、
それほどまでに、
人に投げかける言葉というものは、
「重い」
ということであります。
これだけ情報という言葉が溢れた
社会であります。
今一度、
「恕(じょ)」の気持ちを胸に
見つめなおしてみるというもの
たまにはいいのではないかと
思います(^-^)/
寒くて首をすくめながら歩いても
ココロにはいつも太陽を![]()
みなさんにいつも
笑顔がそばにありますように(*^▽^*)
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