草木も成仏するという考え方は、9世紀末の安然が展開したものだそうだ。古代インドや中国にもない独自のものである。
それまでは有情の主体である人間や動物、餓鬼や修羅などが成仏し、それに随伴して無情の植物や無生物といった環境も成仏する、しない、といった議論だった。それに対し安然は、真如、つまり対象の深奥にあって存在たらしめる唯一の何かがある、これが自ら発心して悟りを得るのだから、有情無情の区別はない、と考えた。ちなみに国土は仏国土のことで、一人の仏が指導する領域のことである。
興味深いのはこうした考え方が、公式の会での論議、唐の高僧との問答、禅の公案のような例題集など、コミュニケーションによって展開された点である。いまから千年以上前にこうした知的なコミュニティが成立していて、自説を主張してそれに批判を加えて錬成していったのである。
この安然の考え方が、現代は表面的に曲解されているのも仕方がないのか。山川草木悉皆成仏と表現にも変わり、アニミズムの発想だとか、日本の自然は美しい、日本ならではの考え方でニッポンすごい、とかになってしまう。知的なコミュニティが失われたということかもしれない。