葉隠の一節「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」は殊の外知られている。でも鍋島藩は武芸や忠誠には縁遠く、葉隠はその戒めとして書かれたとも言われる。明治以降の軍国主義に都合よく解釈されたようだ。田中優子「カムイ伝講義」にもこの武士の実態が明らかにされている。

 まず武士には力はない。武士の人数は7%、これに対し百姓は85%を占める。百姓は猟もするので鉄砲を大量に所持して、当然に射撃の技術も高い。鋤鎌鍬など武器にもなる鉄具も備えている。したがって武士が苛酷な労役や年貢を課したり、理不尽な措置を講じれば、百姓たちはその武力を背景に、順法ストライキや集団訴訟として一揆を起こし、強圧的な武士を排除することが出来た。

 そして多くの武士は豊かではなかった。仕官できれば身分に応じて禄を食むことはできたが、礼節においてその格を維持するには十分ではなかった。したがって金魚の養殖や朝顔の栽培、傘張りなどの内職や、自家用の作物栽培に追われる日々だった。武芸や忠義どころではなかった。浪人となると事態は深刻で、乞胸になる者も多かった。

 さらに武士も実力主義で、身分では出世できなかった。知恵伊豆と言われた松平信綱は、身分は低かったがその才覚で筆頭老中を務めたほど、実力主義なのだった。四書五経に通じるのみならず、その価値観を踏まえて実際の内政外交から経済の問題解決に当たり、組織を率いるという能力が問われる。こうした能力に欠ければ、名家の出でも出世できずに右顧左眄の仕事人生で、その分、遊びや芸事に向かったりする。

 結局のところ、武士道とは日本人の伝統的な精神でも価値観でもなく、国家や企業への忠誠を正当化するために、利用されてきた虚構にすぎない。ちなみに三島由紀夫が葉隠に心酔していた、というのも、三島由紀夫の虚構性を表しているのかも。