ウパニシャッドの根本原理は、梵我一如だと言うのはドイツの学者でどうも単純化しすぎている気もする。そこで原典の和訳で該当する部分に当たってみた。

 「名称がブラフマンであると尊崇する者は、名称の届く限りでは、そこで欲するままに歩き回ることができよう」と唯名論による世界炭酸を示している。続いて「実に、名称より勝れたものがある」として、言語を挙げ

「言語がブラフマンであると尊崇する者は、言語の届く限りでは、そこで欲するままに歩き回ることができよう」と語りうるものとしての世界探索をしめす。この要領で、意、思慮、理解、熟慮、認識、力、食物、水、熱、虚空、記憶、期待、生気と順序づける。

 相の順序付けの論証はそれぞれだ。例えば、一つの手が二個のりんごやみかんを掴みうるように、意は言語と名称の二者を把握する。人が心のなかで「聖句を学びたい」と思えば、彼はそれを学ぶ。「この世界とあの世界とを得たい」と思えば、彼はそれを得ようとする。意は、アートマン、世界、ブラフマンデアルカラダ。といった具合である。

 この対話のしばらく後に、「自我意識に関して言えば、われは下方にあり、上方にあり、後方、前方、右側、左側にある」として次にわれをアートマンに置き換える。自我の奥の自己ということか。そして「実にこのように観察し、このように思考し、このように認識する者は、アートマンに歓びを見出し、アートマンと戯れ、アートマンと交合し、アートマンから歓楽を享けるのだ」と言う。こうした人から「生気が生じ、期待が、記憶が、… 、言語が、名称が、諸聖句が、諸祭式が」と述べる。


 こうした議論に従えば、ブラフマンとアートマンとは、この生気から言語、名称、諸聖句、諸祭式に至る各相で、世界探索とそこから生じる快楽という表裏で結びつくことになる。その論理展開は当然に言語体系を超えていて、瞑想や観照の先にある種の図式、それも多様な対象を当てはめることのできる図式として、浮かび上がるもののようだ。ちなみにこの論理展開には、神が登場して来ないのも興味深い。ウパニシャッドの考えは、現代人でも到達出来ていない領域なんだろうか。