名前という言葉は特別だ。

 一般的な言葉は、具体的な心象がある。例えば、犬は目の前のフサフサした愛おしい動物だが、大昔に誰かが犬と命名してから広まった言葉だろう。走るといった動詞でも同様である。即物的な世界である。

 ところが名前という言葉は抽象的である。◯◯の名前という言うように遍く使われ、具体的な心象を示すものではない。定義のように概念操作の次元にある。

 とりわけ難しいのは、名前を名前と名付ける行為である。指し示す対象がその言葉自体という自己言及的なのだ。試しに名前という言葉がない世界で、自分が最初に名前という言葉を作って広めようとする状況を思い浮かべてみよう。

 「ほらよくあれって何って言うじゃん」「犬のこと?」「そうじゃなくて、あれって何というと、栗、熊、靴とか答えるでしょ」「だから何だ」「その結びつきを名前と呼びたい」「分からん」となりそう。

 おそらく名前という言葉を発明したのは、周りが具象思考だけのときに、抽象思考を獲得した集団だと思う。英語ではネーム、日本語では名前、漢語では名、ラテン語ではノーメン。どれも似通っている。その語源は、サンスクリット語のナーメンに行き着く。

 古代インドの人たちが人類で最初に抽象思考を獲得し、名前という言葉を発明した。それを周辺の未開の人たちが真似た、ということなんだろう。西洋の思考の土台は、ギリシャ・ローマに求められているが、その土台は古代インドにあったのではなかろうか?