先日、プレトニョフ指揮、東京フィルハーモニー演奏のシベリウス交響曲第2番を聴いた。この曲は、ひたすら美音でフィンランドの風景を思わせるような演奏が多いのだが、プレトニョフの解釈では意識の流れを捉えたように聴こえた。

 音響は、羽毛でそっと撫でるよう微弱奏から、透明で襞が重なる和音、分厚くのたくるような強奏まで、弦楽器も管楽器も表現が素晴らしかった。それらは無の境地から、微かな感情の震え、錯綜や困惑、畏れ、興奮、沈鬱、愛情、増悪、希望、歓喜といった情動の刻々と留まることのない変化を反映していた。その合間に断片的な動機が思念のように浮かんで消える。

 シベリウスは、古典派のような動機の繰り返しと展開、といった主知的な構成はとらない。ロマン派でも様々な叙情を音楽で表現し尽くそうとするが、あくまで音楽は客体だった。プレトニョフが示したのは、シベリウスは自身の内面、絶えず目まぐるしく変容する意識の流れをそのまま自動記述した音楽だと感じた。ウィリアム・ジェイムズによる心理学の概念で、これに芸術表現を与えたジェイムズ・ジョイスらとシベリウスは同時代なのだった。

 プレトニョフのシベリウス解釈は創造的で、しかも普遍的である。音響が鳴り響いている間、シベリウスの意識の流れに自分の意識が乗っ取られてしまった。おかげで翌日はひどい頭痛に悩まされた。