先日、大手新聞社の政治記者、編集委員を務められた方のお話しを伺った。

 そこで分かったのは、政治を語る次元が、政策ではなくて人物ということだった。中曽根は首相になったときにやるべき政策のリストをびっしりつくっていた、それで数十年かけて忠誠心のあるスタッフや有力者を固めた。麻生はあれで博識だ。安倍ならプーチンやトランプとも渡り合える。岸田は頼りになる参謀もいないが安倍のやり残した政策を一気に決定している。そんな具合である。

 災害対応についても、三原山が大噴火したとき、後藤田は省庁縦割りを超えて南極観測船を島民の避難用に回した、立派だった。阪神・淡路大震災のとき、村山首相は全権を二人に託し、責任は全て私が負う、と話して皆感激した。岸田は初動対応が遅れた、と批判されるが、あれは陸路、海路、空路とも利用できないので仕方がない。そういう評価である。こうした対応には超法規的措置が必要だから、憲法改正が必要だとも理気説されていた。


 マネジメントの視点からすると、震災対応についても様相は違う。地震・都波・噴火といった災害がこれほど発生していないするのだから、予め様々なケースを想定して、人命を守るための避難や救助、生活支援に至るシミュレーションを積み重ねるべきだろう。そして場合ごとに必要な動員や法的措置、意思決定手続きを明らかにして、準備・演習するものだ。リーダーがボンクラでも、仕組みで生命と生活が守れるようにしなければならない。能登大地震では、このシミュレーションと仕組みができていないのが露呈している。緊急非常事態を名目に憲法改正する必要はない。

 政治全般についても、政策の次元で議論するのを中心にできないのだろうか。首相にしても、そのための機能の一つなのだし。そしてロクな首相が出ないというなら、マネジメントの立場からすれば、採用、能力開発、起用といった人事システムを刷新すべきところである。愚劣な政権に全権を委任するほど恐ろしいことはない。

 違うかな。