心的状態を記述する方法として、今日はたまたま意識の流れと風景映像という対照的な方法に触れた。米田の補題のように対象を理解するのは、対象とその動きを知るのと、対象と他との関わりを知るのと同じ、ということなんだろう。

 意識の流れは、川上未映子「夏物語」によく転換されている。ライフログを私小説に埋め込んだかのように、一人称で微細な想念の動きと膨大な会話で表現していく。例えば、「コートを着たまま誰もいない脱衣所の真ん中に立っていると、わたしは肉と皮も削げ落ちて風化した、大きな生き物のなかに取り残されたような気持ちになった。」といった身体性をともなった描写が目立つ。登場人物はそれぞれに不全感を抱いている。父親の失踪、貧窮、性的虐待、父親は匿名の精子提供者、といった心理的陥穽を持ち、豊胸術、筆談、体外受精、酩酊などの身体的な代償を求める。母子家庭で10代で水商売を手伝い、小説家を目指すという主人公は、私小説風でエピソードがリアリティを持たせる。そのエンディングは自分の過去の場所を辿り、愛した男性の子どもを産むという救いがある。

 風景映像は、足立正生らの映画「略称連続射殺魔」が鮮烈だった。永山則夫の事件がテーマだが、永山則夫の見ていた風景をできる限り追って影像にした作品である。映画は風景の連続で、主人公は不在のままだ。自衛隊の観兵式、室蘭の製鉄所と排煙、フェリー乗り場、新宿のジャズバー跡、高校の教室、函館市外に向かう車窓風景、黄金町そばの繁華街と路地裏、中野・若宮の木賃アパートの一室といった風景である。それぞれに非人間的に荒んで、すえた臭いが漂う気がする。よく懐かしの昭和の風景が紹介されるが、きれいな場所ばかり選んでいることが分かる。こうした非人間的で荒んだ日常風景が、そのまま永山則夫の心理状態を映し出す。当然にハッピーエンディングはない。

 このように両極端のアプローチだが、人間の現実的存在にリアルに迫ってくる。救われるのだろうか?