スーダンで紛争が激化し、大使館員らが国外逃避していると断片的な報道が繰り返されている。その背景を調べると、イギリスそしてアメリカの新植民地主義が根本の原因だと分かる。スーダンの人々が元々経済的自立ができない訳でも自治能力がなかった訳でもない。英米の新植民地主義がもたらした害悪によるものだ。しっかり報道してくれ。

 このテキストによると、イギリスの植民地支配の定跡とその深刻な後遺症がしっかりみてとれる。

  1. 権益:イギリスにとって植民地インドとの航路確保は生命線であった。なかでもスエズ運河の権益を確保するために、エジプトさらに後背地であるスーダンが重要だった
  2. 軍事侵攻:1899年にエジプトのみならず後背地であるスーダンに軍事侵攻して支配下に治めた。それ以前はイギリスの後ろ盾で富国強兵・殖産興業策をとったエジプトがフュンジュ・スルタン国、ダルフール・スルタン国を侵略し、イギリスのお雇い外国人たちが支配地域の制度と運営を牛耳っていた。このエジプトをイギリスが併合した
  3. 収奪体制:軍事独裁政権を擁立して支配する。この政権は、綿花をイギリスに輸出する大農園地主と、イギリスから工業晴雨品を輸入する商業資本家などの北側のごく一部のスーダン人エリートが担い、収奪体制を固める。民主化や自生的な経済開発は蔑ろにされ、民衆の抵抗運動については徹底的な弾圧を加える。独立後も支配下におくイギリスの策略であり、後年、バシール政権が継承した
  4. 分断:分割統治とも言われるが、人々が一体で抵抗しないように、元々は存在していなかった民族や宗教、地域間などの対立を煽り、暴力と報復の連鎖で修復しがたい溝をつくる。スーダンではイギリス側は、南北に分離する、民主化はイスラムの教義に反する、という方針をとってきた。1989年からバシール独裁政権に対して国民民主同盟がほとんどの団体を結集して抵抗運動を展開した。これに対し、2002年ごろから紅海の石油利権を握る米国が介入し、バシール政権を北側の代表者として温存したまま、和平交渉を進めて包括的和平協定を2005年に結ぶ。バシール政権は暫定統治を許され、民主勢力に残忍な弾圧を繰り広げる。そして2011年に南スーダンが分離・独立する。汎スーダンで民主化を求める人々は、南北で抵抗運動を続ける。その上に石油利権をめぐる対立、南で採掘された石油が北のパイプラインで輸送されて取り分で揉めるのが加わる。

といったものである。思えば、イギリスにとって明治維新の日本は、エジプトに倣って独裁体制を構築したもので、スーダン侵攻は、歳入の7倍もの軍事予算で日本をロシアと戦争させたのと同じ路線だったようだ。

 こうしてみるとスーダン紛争に、米英が調停等に関わるのは論外だ。サイコパスの主犯が裁判官を務めるようなものだ。アメリカに加担して日本が自衛隊を派遣していたのもおかしい。もし日本が、不戦・戦力不保持・交戦不可という憲法の恒久的平和主義を堅持して中立的な立場を貫いていたなら、和平交渉をリードすることが期待されたはずだ。アメリカに従属して、戦争できる国にしようとしているのでは望むべくもないのだが。そして根本の解決はやはり、収奪体制におかれつづけた南北スーダンの飢餓や貧困といった構造的暴力を解消することだと思う。中村哲さんらによるアフガニスタンにおける灌漑事業がモデルになると思う。日本の外交姿勢をそっちに転換すべきではないのか。