物理法則の前提は再現性だという。だから仮説に対して、検証さらに追試が出来る。惑星の軌道データから万有引力の法則が構成され、これによって未知の惑星の存在が推測されて、観測で確かめられる。仮説もより簡素で一般性があるものを求められる。惑星の軌道でニュートン力学では説明できないものがあったが、絶対静止系を否定した相対性理論なら説明がつく。なのでどこまでも仮説である。

 道徳法則の探求も、これに倣っているようだ。同じ状況であれば、道徳的判断は再現される。脳死宣告された我が子の臓器は、他の命を救うのだから提供すべきだ、とか。道徳法則も簡明で誰もが準拠すべきものが求められる。本人の効用は下げずに他者の効用が上げられる行為なら実行すべきだ、臓器提供もそうだ、というように。

 でも物理法則と違って道徳法則には、あえて裏をかく意思決定がある。みんなで漁獲制限をしている中で、自分だけこっそり制限以上に水揚げして儲ける。ずっと共有の掟を守っていたが、最後にズルして独り占めで逃亡する。監視する人も抱き込む。自然は悪巧みしないが、人間は悪巧みする。こんな行為が蔓延すれば、道徳法則に従う者がバカを見る。道徳法則には耐戦略性が求められるのだが、とても難しい。

 また道徳法則は他者の厚生を考慮するものである。しかし、この他者が将来世代であって、現在世代にとって最善の意思決定をすると、将来世代が存在しなくなる場合もありうる。資源エネルギーを現在世代が使い尽くす、といったものだ。他者が他の生物や無生物の場合も考えられる。道路や空地を舗装したら、土壌から好気菌が死滅して再自然化しても植生は戻らない、とか。道徳法則は他者への影響を考慮せざるを得ない。

 道徳法則は、耐戦略性や他者性などを考慮せざるを得ないという点で、物理法則のように独立した感じにはならない。そもそも再現性というのに、同じ状況というのもなかなかない。やっぱり面倒。