重要な判断や行動について、ガルトゥングが可逆性という概念を提唱していた。功利主義は、推測される帰結を元に判断・行動するのだが、実際は予測不能だったり蓋然性もある。誤謬もある。だからやり直しが効くように、と規範として可逆性を求めるものだ。

 人間の考えること、やることには、間違いがつきものである。功利主義者としても知られるミルだが、「自由論」ではこの誤謬性があるから、異論や反論が必要だし、議論を深める中でもとの論点も明確になってくる、だから言論の自由が大事だ、という主張がされていた。しかし後世の功利主義では、規範の定式化に躍起になっている。しかし誤謬性を前提とするなら、この定式も誤ちを含むもので、定式に則った判断や行動も悲惨な結果をもたしうる。科学的な知見に基づく判断・行動と称しても、科学はそもそもよりよい仮説であって無謬ではない。

 これに対し、人間は間違えるものだから、間違えが分かったときにやり直せる行為にしよう、というのが可逆性の主張である。とりかえしのつかないことはしない、という規範である。この可逆性の規範を尊重すると、生態系を乱して種を絶滅させる行為も禁じられる。原子力発電も人為ミスから広範な放射能汚染をもたらし、取り返しがつかない結果になるから認められない。死刑も命を奪うし、冤罪と分かっても取返しがつかないから否定される。戦争も、多数の人命を奪い、生活基盤を再生できないほど破壊するから、当然に認められない。可逆性という規範は、このようにエコロジー、巨大システムリスク、平和構築といった現代の重要課題に指針を与える。

 可逆性の議論を行列解析に置き換えると、非可逆の場合には、非正則行列の線形変換が値域の次元を落とす、という演算に相当するだろう。それだけ自由度を失う訳だ。とりかえしのつかないことはしない、というのはなかなか規範として良さそうである。