功利主義は、「最大多数の最大幸福」で知られるように、個々人が追求する効用を、社会的にどのように調整すれば望ましいか、といった議論を展開する。その前提は

  1. 各主体は、何某かの作用によって効用を知覚する
  2. 動機や手段などは捨象して、結果としての効用を追求する
  3. こうした主体が全体として社会を為す
  4. 社会全体の効用は、個々人の効用を調整することで最大化しうる

といったものだろう。主体にネイティブアメリカンを入れないことで、残虐行為による略奪も正当化される。また嬰児は苦痛を感じないから中絶は認められる、快楽より苦痛のほうが大きいから脊椎分離症は安楽死させよ、動物は苦痛を感じるから動物実験や肉食は認められない、最も不利な立場の人の効用を最大化せよ、といった議論が展開される。

 でも、最近の知見からはこれらの前提はいろいろ怪しい。

  1. 主体と言っても、さまざまな関係性から浮かび上がるもので、主体として切り出すのは難しい。「父がいなければ子はいないが、子がいなければ父にはなれない」といった仏話が示す通りである。また効用の知覚も、実際には膨大な数の皮膚や内臓の細胞が関わっているもので、大半は無意識のままである。
  2. 動機や手段が大事だし、そもそも効用も相互作用で時間発展してしまう
  3. 社会的効用といっても、環境や生態系とも相互作用が働くもので、範囲は限定しがたい
  4. 各主体の効用を総じることはできない。できたとしても、民主的な意思決定では求められない

と土台があやふやである。

 ちなみに仏教思想では、主体というのも仮想であって、すべては関係性の網目である、効用というのも見かけの煩悩であって、解脱して悟りをひらくことだ、と功利主義を超越した考え方であった。

 そう考えると、いつまでも功利主義やその派生形に捉われて、極端から極端に走るのもどうかとも思う。