小説は、読者の世界認識を揺さぶるように、マジック・リアリズムで空想世界を構築する、人知を超えるような物語を示す、限界状況で人間のあり方を問う、などイノベーションを遂げてきている。その一つに、語り手独自の世界認識を表現するという独白文学がある。読み手にとっては、自分と異なる世界観や身体感覚を味わうことで、読後は世界の見方がちょっと変わる。

 この独白文学の最新小説ということで、井戸川射子「ここはとても速い川」を読んでみた。児童養護施設に暮らす少年の語り口で、日常世界に起こるさざ波のような出来事と意識の流れを精妙に描いた作品である。近所のお兄さんのアパートで過ごす、川遊びで流される、祖母の病室を訪ねる、係の妊婦が親友にセクハラする、親友が父親と同居できるようになって別れる、といった出来事が穏やかに展開していく。はじめのうちは大阪弁になかなか馴染めなかったのだが、慣れてくると少年の視点が自分と重なってくる。

 この独白小説として10年ほど前に、今村夏子「こちらあみ子」が書かれている。心身に障害を負った少女の語り口で、何気ない言動が周りの人たちと心のずれや歪みを生んで、という靄で包まれたようなあみ子の世界観が侵入してくる。救いのなかなか見えない話だが、それが私たちの現実なのだろう。語り手の選択と語り口の模写が独創的で、ある意味で日本の伝統だった私小説の変形だとも言える。違う立場の人の認識する世界、こうした小説でないとなかなか追体験できない。

 この独白小説の極みは、何と言っても清水義範「霧の中の終章」だと思う。認知症が進行する高齢男性の語り口で、朝ごはんを食べた記憶がなくなる、周りが相手にしてくれなくなる、自分が自分でなくなる、といった展開である。パスティーシュの名手だけに、老人の意識の流れの描き方が克明で身につまされる。そして笑いを交えながら、自分とは何だったのか、という本質を突いてくる。

 こうした独白小説は、語り手の認知構造に沿った的確で繊細な言葉選びが鍵で、その意味で書き手の力量がモノを言う。でもそうなると、岸正彦編「東京の生活史」のように、現実の語り手が自分の言葉で語る自分史とあまり変わらなくなる。小説でのイノベーションも、なかなかに難しそうだ。