自分は何者なのか、というのは自己同一性の問いである。ただこれを不動点として捉えると、自己が固定されてしまう。実際には、自分は関係性の束、つまり周りの人々や事物との相互関係で常に変化している一連の状態なのだ。そうすると、この動的状態において自己同一性はどのように認識されるのだろうか? 

 この問いかけに、リクールは物語的自己同一性という概念を持ち出してくる。物語論やグラフ理論をもとにこの考え方を展開してみる。膨大な数の人々や事物と、何十年にも関わり合ってくると、有象無象の無数の断片的な記憶が情動を伴って自分の側に残る。ここで語りてとしての自分が登場する。語り手は、こうした無数の断片の集まりから自分にとって重要な断片を選び、それらをグラフとして構造化する。それからこのグラフ最小全域木問題として最も簡潔な最適経路を見出す。こうしてプロットが構成される。

 次に、語り手はこのプロットを素に、断片をエピソードに脚色する。そして前説法/後説法、神の視点/自己の視点/第三者の視点等を使い分けて、エピソードを再配列して、自己認識の物語を構成する。ここで新たな事態を迎えたとき、人々はこの物語的自己を再起して、自分の価値観や行動様式に忠実であればこのように行動すべし、という導きを得る。物語的自己同一性に基づく判断・行動で、その分、迷はずに済む。事後、新たなエピソードが加わったときも、選択する断片、プロットや配列などを見直すことで、自己認識の物語を更新することができる。ある意味で、記憶は都合よく書き換えられるということでもある。それに本人はいくつも物語的自己を揃えることも出来る訳だ。

 興味深いのは、Aさん本人が物語的自己を構成する一方で、周りの人々もAさんとの関わりを踏まえて、Aさんの物語的自己を構成していることだ。これはAさんの行動の予測にもなる。何らかの事態で、双方の物語的自己が大きく食い違うことが分かったら、「自分でも気づかない情動があるんだ」とか「あいつは思っていた以上に見どころあるな」とか物語を修正するのかな。

 主体論にもこんな切り口がありそうだ。