伊勢崎賢治「新国防論」には、国連平和維持活動や国家間紛争などの生々しい話が盛り込まれ、今後の安全保障のあり方が示されている。興味深いのは、こうした事実や議論が、簡単なゲーム理論を用いて明快に説明されるということだ。

国連平和維持活動

 まず国連平和維持活動。紛争も、最初はすぐに結着がつくと踏んで双方が戦闘を開始する。しかしもう破壊しつくして、無関係な市民を殺し合う。戦費も尽きて、兵士に食料も給料も出ない。自軍の中で深刻な分裂も生まれる。「もう限界」というところだ。でも部下の手前、止めたいとは言えない。「不名誉」だし、相手は勝利者みたいになって戦後の交渉でも優位に立つ。本当は双方も停戦を「心待ち」にしているが、まさに囚人のジレンマに陥って紛争が長期化してしまう。下の左の図がそんな状況だ。

 そこで上の右の図のように、仲介者として国連平和維持活動が登場する。紛争当事者も国連に依頼して停戦になる分には、部下にも顔が立つ。仲介を依頼しておいたのに相手側が攻撃してきても、大人数のPKO部隊がこれに応戦して市民を保護してくれると期待できる。相手が仲介を依頼し、こちらが停戦を呼びかけるなら後の交渉で優位に立てるだろう。そんな見通しが立つので、途中でいろいろ苦労はあるにしても停戦合意に至る。

 こうした局面で日本には大いに果たしうる役割がある、と言う。日本は、旧宗主国でも覇権国でもなく、ずっと不戦を続けてきた立場である。したがって非武装の国連軍事監視団の中核として、こうした停戦の仲介とPKO部隊も含めた統制にふさわしい。武装したPKO部隊は外貨稼ぎのインド、パキスタン、中南米。そして周辺諸国が積極的であり、軍法もないのに後方支援とか駆けつけ警護とかいう名目で自衛隊を派遣すべきものではない。

国家間紛争

 大国同士で戦争にならない事態も本書に書かれているか、これもゲーム理論で説明される。

 日本と中国との間などにもあるが、領有権について国同士で見解が異なる場合もある。しかし先に軍事力を行使した国は、侵略行為として国連憲章に違反する。中国は常任理事国として有利な立場を保ってきただけに、わざわざ違反するのは得策ではない。相手側が挑発に乗って軍事力を行使するのを待ち、そのときに自衛権発動ということで応戦するというのが基本線である。相手側としてはこうした挑発に対して軍事力ではなく、国内法にもとづいて解除保安庁などの警察力で犯罪行為として摘発することに徹する。もともと双方が貿易や投資、文化的にも深い相互依存関係が築けていれば、小さな領土を巡って双方が交戦していわゆる主権を回復したにしてもそれで失うものの方が遥かに大きい。そんなわけで下図左のように、お互いに自制して国際的信認を得ることがナッシュ均衡になる。

 

 ちなみに憲法9条で戦争放棄を謳っているのは、ゲーム理論でいうコミットメントに当たると考えられる(伊勢崎氏の見解ではない)。自分の選択肢をあえて狭めることで、かえって得をする事態である。この紛争の例では上の右図のように、Aをいくら挑発しても軍事力を用いないことが分かっているので、もしBが先に仕掛けたら確実に侵略行為とみなされる。Bは国際的な信認を失うし、侵略で奪った領土は認められないので、侵略するという選択はなくなる。こうしてもっぱら外交的な解決に委ねられる。

 こうしたAの対国家の安全保障政策がうまくいくには、互恵関係が深く広く確立していること、国際社会の中で高い信認を得ていること、9条の精神に則って侵略をしないことが確実であること、になる。互恵関係は貿易・投資などの交流を一層深めるものだし、さらに一帯一路のような経済圏を確立することも相当するだろう。国際社会における信認は、先述のように非武装の国連軍事監視団の中核として、停戦の仲介とPKO部隊も含めた統制を担うことが挙げられる。核拡散防止条約などでリーダーシップを発揮することも大きいはずだ。

致命的な安倍政権の安全保障政策

 そう考えると、安倍政権の施策はまるで逆である。

 国家的対立を煽り、先制攻撃も可能と言い出し、南西諸島に軍事拠点を充実させる。軍法もないのに自衛隊を海外に派兵する。中庸の立場を脱して、イスラエルを支援する。核兵器禁止にも賛同しない。園児の愛国教育と日の丸賛美を賞賛する姿勢は世界中に知られるところとなった。そして露骨な報道管制は、日本政府が自由と民主主義を尊重しない姿勢も明らかにした。

 伊勢崎氏が主張されるように、こうして互恵関係も国際的信認も、この在任期間のうちに著しく損なっている。失言した防衛大臣を更迭するぐらいでは済まないぞ。