「池のほとりでダイアナは」【下】 | 日日是祝日

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「池のほとりでダイアナは」【下】

 

やがて息があがり、走れなくなった。
彼女は力尽きたように膝をつき、辺りを見回した。
池のほとりである。アンが「きらめきの湖」と名づけたあの大きな池だ。

ダイアナはとぼとぼ歩き出した。
あの丘の上の夕景色がどこまでも華やかだったのに対し、これも何という差なのだろう。
なるほど、日中は陽光を反射して美しく輝き放つ池なのだが、陽も暮れ落ち、夕闇の迫り始めたこの時刻には、「きらめきの湖」という形容もまるで不似合いなひどく気味の悪い場所になっていた。

ダイアナは夢中で駆け出してしまったことを後悔した。
不安で押しつぶされそうになりながら、辺りに何度目かの視線を巡らせた時、彼女は一本の杉の巨木の陰で、可憐な竜胆が紫の花をつけているのに気づいた。
最初は気にもとめず行き過ぎようとしたが、何故か後ろ髪を引かれ、すぐに立ち去ることができなかった。
どういうことだろう。

ダイアナは想いを巡らせた。
脳裏にあの夕映えに咲き乱れていた花々の姿が浮かんだ。

何故かその美しさに対し、目の前の竜胆も劣らぬ美しさを秘めているように思えてならなかった。
こんな場所でも、きりっと姿勢よく立ち、穢れのない花をつけている。

その気高さに惹きつけられたのかもしれない。

 

 

ふと我に返り、ダイアナは自分が不思議に救われたような気持ちになっているのを感じた。
自然の情緒というのは、時として人の心を思わぬ方向へ導いてしまうことがある。
彼女は小さく微笑み、腰をかがめて竜胆の方へ手を延ばそうとした。すると、またしても不可解な感情に動かされてしまう。
(摘んではいけない……)
奇妙な衝動だった。人が絶えず抱いている美への憧れを、彼女の心は拒否したのである。
めくるめく想いで瞳を閉じた一瞬に、ダイアナの内なる心の叫びは溢れ出るはけ口を見出したように、美しい言葉、飾りのない声音となって、小さな唇から溢れ出た。

「この花は、まるであたしだわ。小さくて目立たなくて、いつもひっそりと誰も気づかないようなところに咲くの。でも、今までのあたしにこの竜胆みたいな素直さが、まっすぐな気持ちがあったかしら。なかったわ、きっと。あたしは今まで、自分を認めてくれる人が現れるのをずっと待ち続けていた。他の人と同じ扱いを受けたいと必死だった。でも、そうじゃない。どんな場所でもいい。まっすぐに、自分を偽らずに生きることができた時、人は……いいえ、花も、水も、空も、雲も、この世界のすべてが美しく輝くんだわ」

ダイアナは耳を疑った。

自分の口から出た言葉だと思えなかったからだ。

暗闇を手探りで歩み続けていた彼女がやっと見つけた一筋の光、それが竜胆だったのかもしれない。
胸の奥から何か温かいものがこみ上げてきて、彼女の心は浮き立った。

ダイアナは右手で髪を掻き上げて、しゃんと胸を張って歩き出した。

竜胆は何も見なかったようにひっそりと咲いている。  完