オッペンハイマーを巡る誤解 | ほうしの部屋

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 アカデミー賞7部門を受賞した映画『オッペンハイマー』に関して疑問があります。

 

 この映画をすでに観た日本人からは、原爆投下、原爆被害の実態が描かれていないという不満が出ていますが、そもそも、オッペンハイマーは広島、長崎の被害の大きさを知っただけで、詳細は伝えられていないので、彼についての伝記映画において、広島・長崎の惨状を伝える必然性はありません。

 

 それよりも、私が気になるのは、日本公開の宣伝をするCMのメッセージです。「一人の天才科学者が、世界のあり方を変えた。その世界に今も我々は生きている」という意味のナレーションが大々的に流れています。ここに、映画本体はどうか知りませんが、オッペンハイマーという人物やアメリカの原爆開発に対する大いなる誤解があります。

 アメリカの原爆開発計画は「マンハッタン計画」と呼ばれています。これは、亡命者を含めて、優秀な科学者や技術者を結集して、短期間で原爆開発を行う目的でスタートしました。その時、計画の軍部責任者だったグローブズ将軍は、科学部門責任者としてオッペンハイマーを指名しました。

 そもそも、マンハッタン計画は、巨大なチーム・プロジェクトでした。多数のノーベル賞受賞者も含む科学者や技術者でチームを作り、分担を決めて、開発を効率的に行うようになっていました。そのトリートメント、アレンジメントを求められたのが、オッペンハイマーでした。オッペンハイマーはいわばチームリーダーに指名されたのです。

 

 オッペンハイマーは確かに優秀な理論物理学者でしたが、ノーベル賞を受賞したわけでもなく、それまでの経歴はやや凡庸でした。マンハッタン計画には、フェルミ、テラー、ノイマン、シラード、ベーテなどをはじめとして、ノーベル賞受賞者やそれに近い業績を上げている科学者が多数参加しており、個人的業績では、彼らにオッペンハイマーは及びません。

 オッペンハイマーがマンハッタン計画の責任者に指名されたのは、科学者としての実力よりも、むしろ、チームリーダーとしての能力でした。巨大なプロジェクトの全容を把握して、適材適所に人材を配置し、各プロジェクトの進捗状況を把握して、計画の推進を図るのが仕事でした。オッペンハイマー自身は、原爆の部品を一つとして開発したわけでもなく、基礎理論を導き出したわけでもありません(基礎はアインシュタインの特殊相対性理論にあります)。

 

 マンハッタン計画がチーム・プロジェクトであり、そのリーダーとしてオッペンハイマーが活動したこと、オッペンハイマー自身はやや凡庸な物理学者であったことからすると、日本版宣伝CMの「一人の天才が、今の世界を作った」というコピーは誤解に富んでいます。実際は、「数多くの天才科学者が結集して原爆を作り上げ、そのプロジェクトを推進したのがオッペンハイマーだった」のです。イギリスのドイツ暗号エニグマ解読計画が、コンピュータ開発で名を成した天才チューリングをリーダーとして進められ、チューリング発案の機械式コンピュータを彼自身が組み立てたのとは対照的です。オッペンハイマーは原爆開発の責任者でしたが、原爆を造ったわけでもなく、原爆開発の理論を提示したわけでもないのです。

 

 オッペンハイマー個人の業績を天才的として過大に評価するのも、オッペンハイマー個人に原爆開発のちの核戦争の恐怖の責任を帰するのも、間違っています。映画本編がそうなっていないことを祈ります。とはいえ、日本版のCMナレーションには呆れました。