伝記を巡る軋轢 | ほうしの部屋

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 ジル・ペイトン・ウォルシュの長編推理小説『ケンブリッジ大学の途切れた原稿の謎』を読了しました。

 著者のウォルシュは、1937年にロンドンで生まれてオックスフォード大学を卒業し、教員生活を経て、児童小説や歴史小説を多数発表し、1993年から、本作品に始まる、イモージェン・クワイのシリーズの推理小説を4編発表しました。ドロシー・セイヤーズの作品の公式続編の執筆を任されるなど売れっ子になり、2020年に亡くなりました。本作品『ケンブリッジ大学の途切れた原稿の謎』は、イモージェン・クワイのシリーズの2作目です。1作目の『ウィンダム図書館の奇妙な事件』が内外に好評で、2作目も高く評価されています。日本では、3作目、4作目も翻訳出版される予定です。

 主人公のイモージェン・クワイは、ケンブリッジ大学の学寮付保健師(カレッジ・ナース)という特異な立場です。両親から相続した広い家に、一人暮らしで、学生を下宿させています。かつては医師を目指していたイモージェンは、その独自の観察眼の鋭さと、保健師という仕事柄、様々な人々に出会うことを活かして、巻き込まれた難事件を推理し、調査し、謎を解き明かします。この一風変わった主人公の素人探偵の存在感が生き生きとしており、作品に魅力を与えています。作品そのものは、偶然に左右されるところも多いとはいえ、正統派の推理小説と言えます。

 ケンブリッジ大学で、無名の数学者が幾何学の分野で死後に高名な賞を受賞することになり、その伝記が書かれることになります。しかし、その伝記の執筆に携わった3人の作家が、行方不明になったり、死亡したりします。そして巡り巡って、イモージェンの下宿の学生であるフランに伝記執筆の依頼がきます。しかし、前任者たちがたどったのと同じように、フランも、数学者の特定の年月日の記録が紛失していることに悩まされます。その紛失した記録を巡って、フランは調査を進め、危険な目に遭いそうになります。下宿人の危機を感じとったイモージェンは、独自に調査を進め、失われた年月日に何があったかを突き止めます。それは、イモージェンが仲間の女性たちと取り組んでいたキルト作りのデザインに関わるものでした。意外なところでピースがつながり、事件の真相が明らかになっていきます。そこには、ケンブリッジの長い間の女性差別の歴史や、古参の教官の学寮に対する執着心なども関わっていました。

 

 それでは、本作品の内容を紹介します。

 

 主人公のケンブリッジ大学セント・アガサ・カレッジの学寮付き保健師(カレッジ・ナース)のイモージェン・クワイは、二人の友人と一緒に、年末の赤十字イベントに寄付する、パッチワーク・キルトの図案アイデアを練っていました。その友人たちが立ち去ると、イモージェンは下宿人の大学院生フランについて心配になって考え込みました。生活費に窮していたフランは、新しく教え子として仕えた伝記文学の専門家、マヴェラック教授から何か仕事を世話してもらう必要がありました。フランは、ゴーストライターの仕事を世話してもらいました。多忙なマヴェラック教授の代わりに、過去にケンブリッジにいたギデオン・サマーフィールドという数学者の伝記を書く仕事です。サマーフィールドは死後に賞を受賞することになり、それに乗っかって出版社は伝記の刊行を計画したのでした。しかし、その伝記の執筆には前任者がいました。マーク・ゼファーという作家で、資料を集めたものの、突然、死亡していました。翌日、ボロボロの箱に詰め込まれたゼファーの資料が届きました。フランは不在で、運送屋が二階のフランの部屋まで運ぼうとして、箱が壊れ、中味が飛び散ってしまい、イモージェンが整理するはめになりました。イモージェンは食事に招いたミストラル教授から、サマーフィールドについての情報を集めました。伝記など書くほどの興味深い点は何もない男だが、夫人のジャネットは夫に献身的に仕えていたといいます。サマーフィールドは凡庸な数学者でしたが、一生に一度きり、幾何学の分野で、めざましい業績を上げたといいます。その後、資料を整理していたフランは、前任者のゼファーとは異なる筆跡で書かれた伝記の冒頭部分を見つけました。どうやら、フランはゼファーの資料だけで伝記を執筆することを期待されていながら、手違いで、あらゆる資料が送られてきたようです。フランはゼファーの持っていた詳細な年表を見つけ、それに従って資料を整理していきました。そこには、JSつまりサマーフィールド夫人のジャネットに返却するように指示されたメモもありましたが、そのJSに返却すべき資料が見つかりません。そして、詳細な年表を作ったのはメイ・スワンなる女性であることが判明しました。少なくとも、フランの前に、この伝記を書こうとした人物が二人いたことになります。イモージェンは、ケンブリッジに赴任してきたホリー・ポートランドというテキスタイルの研究者と知り合います。彼女は、アメリカ製キルトにイギリス伝来の生地やデザインを見つけることを目指していました。キルトを仲間と制作しているイモージェンは、興味津々にホリーの話を聞きました。カレッジの食事会で、フランの指導教授であるマヴェラックは、伝記文学の役割とは、人生の屈辱から身を守るための嘘と幻想を発見し、白日のもとにさらすことだといいます。フランの前任者で突然死したマーク・ゼファーの姉のパメラは、偶然にもイモージェンの小学校時代の同級生でした。パメラの話によると、マーク・ゼファーは、サマーフィールドの伝記を書く仕事のせいで死んだようなものだといいます。元凶はサマーフィールドの夫人ジャネットであり、彼女は、逐一、原稿のチェックを要求したり、資料の一部を返却させようとしたり、マークを困らせました。マークは、サマーフィールドの休暇旅行に関する話をジャネットから聞き出そうとして、食事に招かれて行き、そこから帰って急死しました。死因は髄膜炎だとのことです。さらに、マークの前任者だったメイ・スワンなる女性作家は行方不明になっているといいます。イモージェンは、友人で警察官のマークに連絡を取り、メイ・スワンの失踪届のメモをもらいました。イモージェンは、メイ・スワンの甥っ子のデイヴィッドを探し出し、連絡を取りました。会計士のデイヴィッドは、伯母のメイが数学者の伝記を書くから手伝ってほしいと言われましたが、幾何学には疎いので断りました。そして、ある日、突然、メイは、着の身着のままで小さなスーツケースを持って失踪したのでした。メイは、あまり金にならない作家稼業に情熱を注いでおり、仕事を放り出して逃げ出すようなことは考えられないと、デイヴィッドはいいました。イモージェンは、学寮で、試験に不正(盗作)を働いたかどで告発されている学生が、イモージェンに処方された薬のおかげでハイになって良い論文を書けたと言い張り、その件で、聞き込みを受けました。イモージェンは、たしかに、その学生に鎮痛剤を処方していましたが、そんな薬でハイになるのは不可能だと断言しました。フランは、サマーフィールドに関する資料の整理をあらかた終えましたが、サマーフィールドが1978年の夏の一部をどこで過ごしたかを調べる必要があるといいます。そこだけが空白の時期になっていたのでした。サマーフィールドの伝記執筆にはさらに前任者がおり、それはイアン・ゴリアートという詩人でした。イアン・ゴリアートも、メイ・スワンも、マーク・ゼファーも、みな、サマーフィールドが1978年の夏の一部をどこで過ごしたかを模索している最中に伝記執筆の仕事を中絶していました。フランは、サマーフィールドの夫人ジャネットに会いに行きます。そこで、ジャネットに、資料は全て自分の管理下のものであり、何を書くべきかは自分が決める、あの1978年の夏にどこにいたかは空白のままにしろと、物凄い剣幕でまくしたてました。インフルエンザに罹患して自宅に引きこもっていたイモージェンのもとにジャネットが押しかけてきて、フランの持っている資料の一部を引き取りたいと言いましたが、イモージェンは追い返しました。ジャネットは再び押しかけてきて、裁判所の差し止め命令を突きつけました。資料は持ち去られましたが、フランは重要なものはコピーをとってあるから大丈夫だといいました。イモージェンは友人から聞いて、サマーフィールドには愛人のメラニー・ブラッチという女性がいたことを知ります。夫人のジャネットは、サマーフィールドとメラニーの関係を匂わせる資料を取り返したいと思ったのかもしれませんが、そんな資料は何もなかったとフランは断言しました。イモージェンは再び友人の警察官マークに相談しますが、事件性がはっきりしないから警察は手を出せないといわれます。フランは独自の調査で、サマーフィールドはジャネットと知り合う前からメラニーと付き合いがあり、さらに、伝記の最初の執筆予定者だった詩人のイアン・ゴリアートは、サマーフィールド家の友人だったといいます。イアンは伝記を詩的なものにしたかったのですが、サマーフィールドが過去に訪れた地を調べようとすると、ジャネットが物凄い剣幕で怒るので、仕事にならず、資料をメラニーに預けて逃げ出したそうです。メラニーは、自分とサマーフィールドの仲は夫人のジャネットに黙認されていたといいます。1978年の夏にどこにいたかも、はっきりしないまでも、夏はいつも、ケンブリッジ時代の古い友人たちと田舎のコテージに集まって遊んでいたといいます。1978年の夏は、みんなで集まって遊んでいたものの、ゲームでいかさまをしたとなじられたサマーフィールドが出ていき、その行き先はメラニーも知らないといいます。テキスタイル研究者のホリーの講演会を聞きに行ったイモージェンは、美しいキルトの画像をたくさん見せられて、あのような色彩と構図のセンスを持っていたのはどういう人たちなのだろうか、典型的な主婦の手内職にしてはできすぎていると思いました。試験の盗作で告発された学生の懲罰委員会が開かれ、証人として呼ばれたイモージェンは、自分が渡した解熱鎮痛薬に幻覚作用や、ハイになる作用は絶対にないと証言しました。帰ったイモージェンは、フランの恋人のジョシュから、フランが、サマーフィールドが1978年の夏の一部を過ごしたのが、ウエールズのある村だったと突き止めて、場所の特定のために現地へ向かったと聞かされます。フランがウエールズに向けて発ってから5日間が経過しましたが、イモージェンにもジョシュにも何の連絡もありませんでした。イモージェンは自宅の階段を掃除していて、運送業者がサマーフィールド関連の資料を運び込んだ際に落ちたとみられる古びた写真を見つけました。農家の夫婦らしき人物の間に、開襟シャツにフラノのズボン姿の笑顔の男が写っていました。その笑顔の男がサマーフィールドだと思われました。イモージェンはその農家の風景に見覚えがありました。幼少期に夏を過ごしたウエールズの片田舎の村です。イモージェンは警官のマークに相談しましたが、ウエールズのどこのホテルにもフランが泊まった形跡はないとのことでした。イモージェンはフランの身に危険が迫っていると感じて、自分でウエールズへ行くことにしました。イモージェンは、自分が幼少期に泊まっていた農場を苦心して見つけて、農場を継いでいたイモージェンの旧友のグウェニーと再会しました。サマーフィールドが写っていた写真の農場は、エヴァンズ一家のクウォリー農場だと判明しました。クウォリー農場は異様に警戒心が強く、イモージェンは猟銃で脅され、猟犬をけしかけられます。逃げようとしたイモージェンですが、雨の中のぬかるみに足を取られて転倒し、足を骨折して気絶します。イモージェンはクウォリー農場のエヴァンズ一家に介抱されます。エヴァンズ一家は、イモージェンを、たびたび訪れてはエヴァンズ一家を脅迫していた、サマーフィールドの夫人ジャネットと勘違いしたのでした。イモージェンは、自分が寝かされている客用の寝台にかけられた、まったく見たことのない意匠のキルトに心酔します。それは、七角形をモチーフにして、無限に別の模様が生み出されるような幻惑的なものでした。イモージェンはそのキルトを写真に撮りました。エヴァンズ一家の人々が言うには、このキルトを作ったのは、グランマ・ヴィー(ヴィーお婆ちゃん)だといいます。サマーフィールドの夫人ジャネットは、このキルトを自分に売るように執拗に要求してきたといいます。イモージェンはなぜサマーフィールドが1978年の夏の一時期をここで過ごしたのかに気づきました。サマーフィールドは、このキルトの七角形のテキスタイル模様を元に、自分の幾何学上の発見つまり平面充填形を作り上げたのです。つまり、サマーフィールドの発見よりも前にキルトが存在したわけで、サマーフィールドは盗作して自分の学説を作り上げたことになります。サマーフィールドの業績を守るために、夫人ジャネットは、このキルトを入手して闇に葬り去ろうとしていたのでした。イモージェンは、何も知らずに、聞き込みを続けていると思われるフランの身が心配になりました。ジャネットが今どこにいるのかも問題です。警官が訪れてきて、泥炭地で死体が見つかったといいます。イモージェンは最悪の事態を想像しました。しかし、その死体は、サマーフィールドの伝記の執筆準備中に失踪したメイ・スワンでした。イモージェンはケンブリッジへ戻りました。フランは無事に帰還していました。しかし、まだジャネットに命を狙われている危険性がありました。学寮に戻って公園で軽食を摂っているイモージェンのもとに、ジャネットが姿を現わします。ジャネットは以前、声楽家でしたが、研究ために騒音を嫌うサマーフィールドのために、音楽の道を諦めました。子供も持たず、友人との付き合いも、サマーフィールドに忖度して縮小しました。メラニーとの浮気も、サマーフィールドの強すぎる性欲のためだと黙認しました。すべてを、サマーフィールドの数学者としてのキャリアのためにジャネットは捧げたのです。そのため、サマーフィールドの伝記は、彼の業績を大々的に知らしめるものであるべきで、それがウエールズの田舎の農場の屋根裏部屋のキルトから盗用したものだなどと知られるのは、とんでもないことでした。サマーフィールドが良心の呵責で全てを公にすると言い出すと、それを許さないジャネットはサマーフィールドを毒殺しました。そして、さらに伝記を執筆する予定でサマーフィールドの禁断の秘密に近づいた二人も殺しました。マーク・ゼファーの髄膜炎と思われたのは、DNOCという薬剤のせいで、農薬として売られていますが、かつてはダイエット用の薬として処方されていたとイモージェンは調べました。実際、ジャネットは太ったり痩せたりを繰り返す体型を写真に見せており、DNOCを処方されていた可能性が高いと思われました。しかし、夫の研究に献身的だったというジャネットの告白は、サマーフィールドの愛人だったメラニーの証言で全く逆だったことが判明します。ジャネットは自分の見栄のために、夫サマーフィールドを追い込んでいたのでした。そういう境遇から逃げ出す道がメラニーだったのです。イモージェンはジャネットが一言「私」というところを「私たち」と言い間違えたのを、共犯者の存在があると推理していました。共犯者はたしかにいました。サマーフィールドの同僚のバガデュース博士でした。大学の名誉を守るために、盗作を公表しようとしたサマーフィールドや伝記を書こうとした人々を次々と殺害したのでした。バガデュース博士は、ウエールズのクウォリー農場の近くに別荘も持っていました。フランの指導教授のマヴェラックは、伝記にスキャンダルが伴うことに大喜びで、ぜひ、フランの名前で出版するように勧めました。イモージェンは、エヴァンズ一家から、あの七角形のキルトを作ったグランマ・ヴィー(ヴィーお婆ちゃん)が老人ホームで健在だと聞かされて、そこを訪れました。すると、グランマ・ヴィーはかつてケンブリッジ大学で優秀な数学の学生だったことが判明しました。しかし、当時のケンブリッジは、女性が大学の教職に就くことを禁じていたので、グランマ・ヴィーは数学の道を諦めざるを得なかったそうです。その後、ケンブリッジ大学は、過去への反省もこめて、グランマ・ヴィーに名誉学位を授与しました。

 

 ストーリーはざっとこのようなものです。

 

 この著者の作品を読むのは2冊目ですが、いずれも、長編というよりも、中編と長編の間ぐらいのボリュームです。その中に、実に多くの人物が登場し、多彩なエピソードが語られます。それらの登場人物たちが、関係をもって最後まで存在することが多く、多彩なエピソードの多くも、伏線として、謎解きや物語の構成に回収されていきます。この構成力は見事としか言いようがありません。さすがにベテランの作家といえます。

 冒頭で、イモージェンたちがキルトを作るシーンが出てきますが、これが単なる枕ではなく、物語の重要なピースであることに中盤以降で気づかされます。キルトの文様と幾何学の理論との整合という、意外な結びつきが、犯罪の動機に大きく関わってきます。本作品に出てくるテクストのどれもが、不要なものは一切なく、物語を構成する重要な役割を果たしていることに気づかされます。

 また、ケンブリッジという伝統的な大学を核として、イギリス社会のいまだに残る保守性というものも、糾弾され、揶揄されています。主婦の手慰みと見られがちなキルトも、その幾何学的文様を生み出すアイデアの底深さを思い知らせ、数学教授の理論のアイデア源にまでなるという、役割の顛倒が見られます。物語の中核をなす、無限に続く七角形のキルト文様を生み出したウエールズの片田舎の老婆が、かつては、ケンブリッジ大学で学ぶ数学の優秀な生徒だったことも判明します。当時の男尊女卑の風潮から、女性に学位を授けなかった大学に所属する、のちの数学教授が、数学の天才だった老婆の生み出した七角形のキルト文様を盗用して、自分の幾何学理論を発表した、その証拠隠しに躍起になる数学教授の妻や同僚の愚行は、大いなる皮肉を含んでいます。数々の殺人に加担した、数学教授の妻もまた、男性優位社会の犠牲者ともいえるでしょう。主人公のイモージェンでさえ、いまだに残る男尊女卑的な大学の風潮から、嫌な目に遭うことも少なくありません。本作品は、女性作家ならではの、男性中心社会に対するプロテスト(抗議)の意味も込められていると言えるでしょう。