ファム・ファタール(宿命の女)の魔 | ほうしの部屋

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 ピーター・スワンソンの長編推理小説『時計仕掛けの恋人』を読了しました。

 著者のスワンソンについては、『アリスが語らないことは』のレビューで紹介しましたので、詳しくは触れません。2014年に長編ミステリー作家としてデビュー後、ヒット作を連発しています。その作家のデビュー作が本作品です。

 次々と名前や身分や姿を変えて、周囲を騙して生き延び続ける女性が中心人物です。その女性の大学時代の恋人だった主人公が、大学時代に彼女に翻弄され、そして20年経った後に、もっと大きな事件に巻き込まれて、彼女に翻弄されます。彼女の魅力の虜になった主人公は、何回も騙されたり裏切られたりしたと思いながらも、彼女の後を追いかけていくのです。過去の回想と、現在進行形の事件とが交互に出てきて、物語に複雑さを与えています。そして、リアナという女性の正体は、最後まで、解ったような解らないような状態になっています。読後に、ため息混じりで考えさせられる作品です。

 

 それでは本作品の内容を紹介します。

 本作品は、主人公ジョージの大学時代の回想と、現在進行形の事件とが、ほぼ交互に記されており、そこに物語の複雑さと深みがあります。しかし、便宜上、ジョージの大学時代の回想と、現在進行形の事件とを、分けてまとめて紹介することにします。

 

[20年前の出来事 ジョージの大学時代の回想]

 ジョージはコネティカット州の大学に入学してまもなく、リアナと付き合うようになりました。しかし、1学期が終わり、冬期休暇中に、リアナは、故郷フロリダ州で自殺してしまいます。リアナは、大学では、オードリーと名乗っていました。そのオードリーが自殺したという話題は大学中を駆け巡りました。オードリーは、実家のガレージで発見され、エンジンをかけっぱなしの車内で窒息死していました。ジョージはフロリダ州へ向かい、オードリーの実家を訪問することにしました。1学期の大学生活では、オードリーは充実した様子で、自殺する動機などに思い当たるところはありませんでした。ジョージはモーテルの部屋を借り、近くの修理工場で車を借りて、オードリーの実家を訪問します。しかし、警察官に事情を聞かれます。警官に見せられたオードリーの高校時代の写真に、ジョージは見覚えがありませんでした。警官は、そこに写っている女性がオードリーだというのです。見せられたオードリーの写真は、大学で知り合ったオードリーではありませんでした。誰かが、本物のオードリーの名前を騙って大学に通っていたことになります。本物のオードリーは、大学へ行くと両親に嘘をついて、フロリダの北へ行き、贔屓のバンドメンバーと暮らしていました。そこで麻薬中毒になりました。警察との面会を終えてジョージが車に戻ると、ワイパーに電話番号を書いたメモが挟まっていました。モーテルの部屋へ戻ると、ジョージは、オードリーの幼なじみで彼女に恋心を持っていた男ら二人組に襲われて怪我をします。ジョージは、自分が知っている、大学で知り合ったオードリーは、自殺したオードリーとは別人だと必死に話します。ジョージがメモにあった電話番号にかけると、女性が出て、本物のオードリーの代わりに別の女性が大学へ行っていたと証言します。オードリーの弟から聞いたといいます。オードリーは両親から半ば強制的に大学へ行くことを命じられていましたが、自分は贔屓のバンドについていくことを選びました。オードリーは、高校で、貧しい家庭の出身で大学へ行きたいと熱望していた女性と、身分を交換する計画を立てたらしいのです。ジョージはもう一度警官に会って、オードリーの高校時代のアルバムを見せてもらい、そこに、自分が大学で付き合っていた女性を見つけます。その女性はリアナという名前でした。ジョージはリアナの貧しい自宅を見つけ、リアナに警察の手が迫っていることを伝えようとしました。しかし、ジョージは、リアナの親からリアナは今は会えないので大学へ戻るように告げられます。モーテルの部屋に戻ったジョージに、リアナ(偽のオードリー)から電話がかかってきました。リアナは会いたがっており、ジョージはバーで待ち合わせることにします。現われたリアナは、まさにジョージが大学で付き合っていたオードリーでした。リアナによると、彼女とオードリーは高校のスピーチ部で知り合いました。裕福な家庭ながら大学へ行くよりもバンドの追っかけをしたがっていたオードリーと、貧しい家庭に生まれて大学へ行くことを夢見ていたリアナは、互いの身分を偽って交換することを計画しました。計画はうまくいきましたが、一学期が終わり、リアナがフロリダに戻ると、オードリーが麻薬中毒のバンドメンバーに愛想を尽かして、新学期からは大学へ通いたいと言い出しました。不満で酒をあおって泥酔したオードリーは、エンジンをかけたまま車内で眠りこけ、窒息死したといいます。オードリーが死んでしまい、リアナは大学に行き続けることができなくなり、元の貧しい生活に戻らなければならなくなりました。リアナは、父親の借金を取り立てていたデールという男につきまとわれていました。警察から連絡が来て、オードリーを殺害した容疑でリアナに逮捕状が出されたといいます。警察は、リアナが戻るかもしれないから、ジョージに大学で待つように依頼しました。ジョージはフロリダをあとにして大学へ戻りました。大学へ戻ったジョージは、オードリーことリアナと観に行った映画を思い出しました。リアナは、別人になりすました主人公に感情移入していました。変わった自分こそ本当の自分かもしれないといいました。ジョージはオードリー(リアナ)を失って、独りで過ごすことが多くなりました。フロリダの警察から連絡が来て、リアナが完全に姿を消したこと、そしてリアナに父親殺害の逮捕状も出たことを知らされます。リアナは、自分の父親とオードリーが死ねば、新しい人生をやり直せると思ったのではないかとジョージは推測しました。

 

[ジョージを巻き込む現在進行形の事件]

 40歳間近のジョージは、ボストンの出版社の経理部で働いていました。恋人のアイリーンとデート中に、バーの片隅で、20年間音信不通になっていたリアナを見つけます。久しぶりに会ったジョージに、リアナは頼み事があるといいます。別の日、リアナからの電話で、ニューエセックスに来て欲しいといいます。車でニューエセックスの隠れ家らしきところに来たジョージは、待っていたドニー・ジェンクスという男に殴りつけられ、ジェインという女に殺害予告を知らせるように命じられます。ジェインというのはリアナの偽名でした。ほうほうの体で自宅に逃げ帰ったジョージをリアナが待っていました。リアナは、ドニーの雇い主である、ジェラルド・マクリーンという実業家兼闇投資家の不倫の愛人になっていました。リアナはマクリーンから50万ドルを盗み出して逃亡していたのでした。その50万ドルをマクリーンに返すために、報酬1万ドルでジョージに運んでほしいとリアナは頼みました。ジョージは、マクリーンに金を届けてリアナから手を引くように説得することを約束します。ジョージはマクリーンの邸宅を訪れます。ジョージはマクリーンに50万ドルを渡し、ドニーに手を引くように命じて欲しいと依頼します。しかし、マクリーンはドニーという男のことは知らないといいます。マクリーンにはDJ(ドニー)という名前の探偵が付き添っていましたが、ジョージを襲ったドニーとはまるで別人でした。マクリーンは、ジェイン(リアナ)とバルバドス島のタックスヘイブンで知り合ったといいます。最初の妻にそっくりだったといいます。マクリーンはジェインを秘書として雇いましたが、金庫の鍵の番号を知られて、金を持ち逃げされたのだといいます。マクリーンは、ジェイン(リアナ)が、自分の好みの女性に似せて髪を染めたり細工していたこと、ジェインの過去が一切不明なことをジョージに語りました。マクリーンは、ジョージにジェインに会いたいと伝えるように頼みます。ジョージはリアナに会い、金をマクリーンに返したこと、自分をニューエセックスで襲った男は、本当はドニーという名前ではないということを伝えます。また、マクリーンがリアナの素性を調べていることも伝えます。ジョージとリアナは短い大学時代の思い出話に花を咲かせます。その晩、ジョージはリアナと寝ました。翌日、警察がジョージのもとを訪れ、マクリーンが殺害されたことを伝えました。ジョージは、オードリー(リアナ)に頼まれて、マクリーンに50万ドルを返しに行ったことを話しました。大学時代のオードリーとの経緯も話しました。ジョージは恋人のアイリーンに会いましたが、彼女はドニーという男に殴られて顔にケガを負っていました。ジョージは最初にドニーに襲われたニューエセックスの荒れ果てたコテージに向かいました。コテージは朽ち果てていて誰も住んでいる形跡がありませんでしたが、隣のデッキハウスには、老婆のような女性が住んでいました。自宅に戻ったジョージのもとを、マクリーンに雇われた探偵のDJと、受付の女性でマクリーンの姪のカリン・ボイドが訪れてきました。彼らの話によると、マクリーンはハンマーで殴り殺された際に、金庫を開けており、そこから、500万ドルは下らない莫大な金額のダイヤモンドが盗まれたといいます。犯人は、マクリーンがジョージから返された50万ドルをしまうために寝室の金庫を開けるのを、隠れて待っていたようです。ジョージはマクリーンを殺してダイヤを盗んだのは、自分やアイリーンを襲ったドニーだと推測しました。ジョージは一切をアイリーンに話し、しばらくボストンから離れるように提案しました。アイリーンの家から出たジョージは、尾行してきた探偵のDJと会いましたが、DJはドニーの車に轢かれます。ドニーは、ジョージをショットガンで撃ちましたが、車の陰に隠れてジョージは難を逃れます。ジョージは一連のことを全て警察に話しました。DJは大ケガを負いましたが命には別状はなかったようです。警察は、ジョージたちを襲ったドニーの本名がバーニー・マクドナルドだといいます。リアナとバーニーはグルで、ニューエセックスの廃コテージでバーニーがジョージを脅したのも、リアナが危険だと思わせてリアナの依頼を引き受けるようにジョージを誘導したのだと考えられました。ジョージはカリンに会い、ニューエセックスの廃コテージの隣のデッキハウスに、リアナとバーニーは潜伏していたのではないかと推測します。その場所へ、ジョージはカリンを案内します。デッキハウスの浴室から、ビニールシートに覆われた死体が見つかりました。ここに住んでいた女性と考えられました。警察に通報しようとしたカリンの前に、バーニーが現われます。バーニーはカリンの首を麻酔銃で撃ちます。バーニーから隠れたジョージは、バーニーの車の中で、麻酔にかけられたらしいリアナが倒れているのを見つけます。助けようとしますが、ジョージもバーニーに麻酔銃で撃たれて昏倒します。目覚めたジョージは、ボートに乗せられて沖合にいました。手足を縛られています。同じく、リアナも縛られていました。カリンは麻酔が効きすぎて死んでしまい、デッキハウスで見つかった死体とともに寝かされていました。ボートを運転しているのはバーニーでした。ジョージは、リアナが下着の中に隠していたステーキナイフを取り、手首のロープを切ろうとします。リアナは、釣り具箱の中に拳銃が入っているといいます。マクリーンを殺してダイヤを盗んだのは、リアナと共謀したバーニーでした。しかし、二人の協力関係は険悪になり、逆上したバーニーはリアナまで殺そうとしているとリアナはいいます。ニューエセックスのデッキハウスで死んでいた女性は、リアナの知り合いの麻薬常習者で、付近の家やボートの持ち主でした。ようやく、ジョージが手首のロープを切った時、バーニーが運転席からやって来ました。バーニーは、リアナにコンクリートブロックを縛りつけて海に投げ込みました。海に落ちる時、リアナはジョージに「愛してる!」と叫びました。バーニーは他の二つの死体も海に投げ込みました。ようやく動けるようになったジョージは、釣り具箱の中から拳銃を取り出して、バーニーを射殺しました。ジョージは、何とかボートを操縦して、陸地の近くにいたプレジャーボートに助けを求めました。ジョージは、無数の法執行機関に全容を話しました。ジョージ自身にもダイヤ強奪や殺人の嫌疑がかかっていましたが、何とか解放されました。ジョージは、根拠もなく、海に投げ込まれたリアナは生きているのではないかと思っていました。ジョージの自宅から、盗まれたダイヤのうちの二粒だけが出てきて、ジョージは事情聴取を再び受けることになりました。リアナが置いていったものだというジョージの推測を警察も信用しました。ジョージは、リアナはどこかで生きていて、盗まれた大量のダイヤとともに逃亡していると思っていました。ジョージは、リアナが死んだことにするための目撃者に仕立て上げられたのだと考えました。ジョージは、ニューエセックスのデッキハウスで、リアナの本を見つけます。そこにはマヤ遺跡の写真が挟まっていました。ジョージは、リアナの変身は天賦の才だと思いました。変わる女が、変わらない男である自分を利用したのだとジョージは思いました。ジョージは、何の根拠もなく、ただリアナは生きていると思い込み、マヤ遺跡に向かいました。

 

 ストーリーはざっとこのようなものです。

 大学時代に、名前を変えて主人公のジョージを翻弄したリアナが、20年経って再び名前を変えてジョージに接近してきます。冷静に考えてみれば、ジョージはリアナに騙されっぱなしなのですが、ジョージはなぜかリアナの再三の頼みを聞き入れ、味方をしてしまいます。それほどまでに、リアナの魅力はジョージを翻弄しているのでしょう。ジョージにとってリアナは、「ファム・ファタール(宿命の女)」なのでしょう。

 本作品では、リアナだけでなく変名が複数現われます。リアナは3つの名前を使い、仲間のバーニーも、マクリーンに雇われた探偵の名前を騙っていました。これだけ変名が出てくると、読んでいて混乱しそうなものですが、著者の巧みな筆致により、変名が誰を指すのかが迷わずにわかるように示されています。変名はこのミステリーのテーマになるものですから、それを上手く扱えるか否かが成功の鍵であり、著者は成功していると言えます。

『アリスが語らないことは』でもそうでしたが、著者の得意技は、時間軸の操作だと言えます。現在進行形の事件の話と、過去の経緯が、断片的に、交互に出てくるのですが、それにより、読者は、主人公ジョージと、その永遠の恋人と言えるリアナの、腐れ縁とも呼べそうな、離れがたい繋がりを意識させられます。そして、物語は複線化して複雑になり、それと共に深みも増していくと言えます。本作品『時計仕掛けの恋人』が著者のデビュー作であることを考えると、デビュー作がすでに秀逸であり、著者の技法の全てが詰まっているとも考えられます。時間軸の操作、性癖の問題、情景描写など、著者の得意技と思われる技法が、本作品にもたっぷり詰まっていると言えるでしょう。