探偵小説モドキの実験文学 | ほうしの部屋

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 ポール・オースターの中編小説『ガラスの街』を読了しました。

 著者のポール・オースターは、現代アメリカを代表する作家の一人ですが、私は恥ずかしながら、初めて読みました。オースターは1947年に生まれ、コロンビア大学を卒業後、世界各地を放浪します。1970年代には、詩作や評論、翻訳に勤しんでいました。1985年から1986年にかけて『ガラスの街』『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』という「ニューヨーク三部作」を発表し、小説の世界でも、アメリカ文学の旗手として脚光を浴びるようになりました。その後も、たくさんの作品を世に送り出しています。しかし、小説デビュー作である本作品『ガラスの街』の原稿は、幾つもの出版社に断られたという逸話もあります。

 日々の生活に退屈を感じていた主人公は、間違い電話が元で、探偵になりすまして、ある家庭のいざこざに巻き込まれていきます。社会的言語を全く学習させず、自然発生的に生まれるはずの言語を復活させようという、狂気に満ちた学者の息子が、幼い頃に父に幽閉され、知的障害・言語障害を負います。その学者が舞い戻ってきて息子を危険な目に遭わせる可能性があるという相談から、主人公は、学者の動向を見張るように依頼されます。学者の奇妙な言動に翻弄され、主人公は冒険的なことも試みますが、結局のところ、虚しい結末を体験することになります。探偵小説(推理小説)の体裁をとった実験的文学作品と言えます。

 

 それでは本作品の内容を紹介します。

 

 主人公のクインは、妻子を亡くし、ウイリアム・ウイルソンという筆名でミステリーを書く作家です。そのクインの元に、ある晩、間違い電話がかかってきました。クインは、自作のミステリー小説に登場する、ワークスという探偵に、自分がなってきたような錯覚を覚えていました。間違い電話は、ポール・オースターという探偵宛にかけたものでした。クインは、探偵オースターになりすまし、依頼人に面会することを約束します。クインは、自分を消して、探偵になることを決意します。クインは、間違い電話の主から住所を聞いて、そこを訪れることを約束します。翌朝、間違い電話の主を訪問すると、ヴァージニア・スティルマンという女性が出てきました。夫のピーターのことで頼みがあるといいます。クインは、ピーターに面会しますが、ピーターは精神を病んでおり、長い間、言葉をしゃべれない状態でした。言語療法士だった妻のヴァージニアの介添えで言葉を覚えました。しかし、ピーターが長々としゃべった話の内容は支離滅裂なものでした。ピーターの会話内容と、ヴァージニアの話から、ピーターは生まれてから長い間、言葉の無い空間で幽閉されて育ったことが判明します。そうさせたのは、ピーターの父親で大学教授のスティルマンでした。ヴァージニアによると、ピーターは、スティルマン教授に9年間幽閉されていたといいます。幼少期をまるまる他人と全く会わない状態に置かれており、言葉も覚えませんでした。家が火事になってようやく幽閉状態から解放されたのです。スティルマン教授は児童虐待の罪で服役し、近々釈放されてニューヨークに戻ってくるといいます。ヴァージニアは、スティルマン教授が息子のピーターに危害を加えるのではないかと恐れていました。スティルマン教授は、ピーター宛てに、ピーターを悪魔の子と呼び、裁きの日が来るという脅しの手紙を送りつけていました。クインは、スティルマン教授を見張り、ピーターに近づかないようにすることを要請されます。スティルマン家は元々名家の誉れ高く、ピーターは唯一の跡継ぎでした。探偵のオースター名義の受け取り人になっている小切手を、クインはヴァージニアから受け取りました。クインは、事件の顛末を記録するために赤いノートを買いました。大学図書館でスティルマン教授の著作を読んだクインは、スティルマン教授が、聖書のバベルの塔の一件がある以前の、自然発生で生まれた言葉を復活させる野望を抱いていることを知ります。そのために、スティルマン教授は、息子のピーターを「汚染された言語」である日常言語から遠ざけ、本人の口から純粋な言葉つまりバベル以前の言葉が発せられることを確かめるために、予言された年である1960年にピーターを幽閉したのでした。グランドセントラル駅に降り立ったスティルマン教授を見つけたクインは、教授を尾行します。教授は粗末なホテルに部屋を取りました。それから、毎日、スティルマン教授はホテルから出て、街をランダムに歩き回り、ゴミやガラクタを拾い集めてスーツケースに収めて運びました。クインは、スティルマン教授の経路と拾った物を赤いノートに記録していきました。スティルマン教授の一日の彷徨を線でつなぐと、文字のようなものが浮かび上がってきました。それを繋ぎ合わせると「THE TOWER OF BABEL(バベルの塔)」という言葉が浮かび上がってくるようにも思えましたが、あくまでもクインの想像でした。クインは、たまたま出会った見知らぬ人を装って、スティルマン教授に対面し、会話します。スティルマン教授がゴミやガラクタを集めているのは、それらに名前をつけるためだといいます。例えば、壊れた傘は、元の無事な傘と同じ役割を果たせないのだから、別の呼び名にすべきだというのです。それをもとに、スティルマン教授は本を書く予定だといいます。クインが名乗ったヘンリー・ダークという偽名のイニシャルから、『不思議の国のアリス』に登場するタマゴのお化けのハンプティ・ダンプティを連想したスティルマン教授は、タマゴのお化けが語る、言葉についての含蓄のある意見を述べます。しかし、対面するようになって数日後、クインは、スティルマン教授の消息を見失ってしまいます。教授は、いつの間にかホテルをチェックアウトして、どこかに消えていました。クインは、ピーターの妻ヴァージニアに電話して、二人の住居の近くに隠れて、スティルマン教授が現われないかどうか見張ると約束します。クインは、本物の探偵らしい(クインがなりすましていた)ポール・オースターに会いにいきますが、オースターは探偵ではなく作家でした。ドン・キホーテの物語を本当に書いた人物は誰かについての本を書いているといいます。クインは、オースター名義でヴァージニアが振り出した小切手を渡し、現金に換えて自分に渡してくれるように頼みました。クインは、ニューヨークの街を歩き回り、見かけた浮浪者や大道芸人など道ばたで生きる人々の観察記録を赤いノートに記していきました。その後、クインは、ピーターとヴァージニアが住むアパートの近くの裏路地で、スティルマン教授が来ないかどうか、張り込みを続けます。食事や睡眠の時間を削って、見張りを続けました。しかし、手持ちの金が尽き、ヴァージニアがくれた小切手をオースターに換金してもらってそれをもらおうと思い、オースターに電話をかけました。しかし、オースターは小切手は不渡りで換金できなかったといいます。それにも増して、クインを驚愕させたのは、スティルマン教授が橋から川に飛び込んで自殺したというニュースでした。見張りで路上生活をしていたクインは、新聞もテレビも見ていなかったので、スティルマン教授の死を知りませんでした。クインはヴァージニアに電話をかけますが、何度かけても繋がりませんでした。失望して久々に帰宅したクインは、自分の部屋が全く別人の部屋になっていることを知ります。クインが家賃を滞納していたため、管理会社が、別の賃借人に明け渡していました。自分の住処を失ったクインは、ピーターとヴァージニアが住むアパートに行きます。施錠されておらず、中はもぬけの殻でした。その空のアパートでクインは何日か過ごします。クインが寝ている間に何者かが運んでいる料理を食べ、赤いノートに、思いつくことを書いていきました。作家のオースターの友人であった著者は、旅行先から帰り、オースターに事の顛末を聞き、クインが過ごしたアパートへ向かい、赤いノートを見つけました。クインは行方不明になっていました。そして、著者は赤いノートをもとに、この物語を書いたのでした。

 

 ストーリーはざっとこのようなものです。

 

 著者のオースターは、このデビュー作の原稿をいくつもの出版社に持ち込んでは断られたといいます。それは、本作品が、推理小説もしくは探偵小説の体裁をとっていながら、謎は解明されず、事件も解決しないからです。出来損ないの探偵小説と見なされてしまったのです。しかし、著者は、探偵小説の体裁をとりながら、いわば「奇妙な味」の作品を書いたのだと考えられます。主人公のクインが巻き込まれた奇妙な事件?、それを追ううちに、クインの生活が破綻し、どうしようもない結末を迎えます。日々の(ペーパーバックライターとしての)生活に倦んでいたクインは、探偵オースターになりきって、実際の事件(事件もどき)に関わることで、人生に光を当てようとしたのです。しかし、その野望はくじかれ、全てを失ったクインは、投げやりになって、あげく、行方不明になってしまいます。スティルマン教授に関する、クインの調査も観察も推理も、全くの無駄でした。スティルマン一家の狂気に巻き込まれ、翻弄され、クインは自分の人生を失ってしまいました。光(刺激)を求める人生の虚しさが、読後に沸き起こってきます。

 本作品は、メタ・フィクション(メタ・テクスト)の体裁をとっています。スティルマン教授の著書、スティルマン教授の言動などを記録したクインの赤いノートなどが原テクストであり、それを巡るクインの言動がメタ・テクストであり、そのクインの顛末を記している著者がメタ・メタ・テクストの形で本作品を書いているという体裁です。作品中には、著者と同名のポール・オースターという作家も登場し、メタ・フィクションとしての複雑性を増しています。このように、実験的に書かれた作品ではありますが、筋立ては難解ではなく、読者を結末まで順調に引っ張っていきます。人生において、いかに、無駄なことが多いか、無駄を積み重ねる人生のいかに虚しいことか、といったテーマを、本作品はつきつけているように思えます。

 探偵小説(推理小説)の体裁をとって、テクストの遊戯を行っていると考えられる本作品は、著者のデビュー作にして、非常に野心的な試みに満ちていると言えます。幾つもの出版社に断られるほど誤解を生むような内容ですが、エクリチュール(書かれたもの)に関する著者の実験精神に満ちあふれていると言えます。中編小説ですが、メインのストーリー展開の合間に、言語や書物を巡る蘊蓄もふんだんに出てきて、読者を飽きさせない工夫、知的好奇心をくすぐる工夫に満ちあふれています。文体や進行には独特のノリの良いテンポ、リズムがあり、音楽的なイメージで捉えることも可能だと思われます。デビュー当時のオースターという新しい才能の誕生を思わせる傑出した作品と言えるでしょう。