心の避難所 | ほうしの部屋

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 ジェローム・ルブリの長編ミステリー『魔王の島』を読了しました。

 著者のルブリは、1976年生まれのフランス人で、大学卒業後、外食産業で働き、レストランの責任者などを経て、作家としてデビューし、40歳を機に作家業に専念するようになりました。長編3作目の本作品『魔王の島』は様々な賞を受け、ルブリは非常に人気のある作家になりました。

 本作品は、犯人当て、犯人捜しといった正統派のミステリーとは一線を画しています。意外な結末に多くの人が驚くであろうことは必至ですが、単なる謎解きでは済まされない、重い意味を持った作品です。誰が誰を欺こうとしているのかが不可解な、サイコサスペンスになっています。著者の手腕に拍手を贈りたくなるとともに、複雑な読後感を残す作品です。

 

 それでは本作品の内容を紹介します。

 

[第一の道しるべ 島]

 ここでは、主人公のサンドリーヌと祖母シュザンヌの物語が交互に出てきます。便宜的に、それらを分けてまとめて紹介します。

 

(サンドリーヌ 1986年)

 ノルマンディー地方の新聞記者のサンドリーヌは、牛の腹に鉤十字のマークを落書きされたという農場の取材に訪れます。農場主のヴェルンストはドイツ出身らしく、彼のことを良く思っていない近隣の人々も少なくないと思われました。ヴェルンストは元ドイツ兵で、終戦直後にフランス人の娘と恋におちてフランス各地を転々としました。サンドリーヌは、この農夫に会ったことがあるような奇妙な感情に襲われます。取材から戻ったサンドリーヌに、祖母の訃報が伝えられます。サンドリーヌは祖母のシュザンヌに全く会ったことがないのですが、遺言で相続人に指定されたこともあり、シュザンヌが暮らしていたノルマンディー沖の小さな島へ向かいます。その島は、かつてドイツ軍がトーチカを築いて要塞化したもので、ナチスによる残虐行為の噂が流れていました。現在住んでいる島民はわずかです。シュザンヌの遺言を預かっている公証人の案内で島への連絡船に乗ったサンドリーヌは、乗組員のポールと親しくなります。島が自然保護区に認定されてから、島への渡航は厳しく制限されていました。ポールの話では、島には、死んだシュザンヌの他に、ヴィクトール、モーリス、クロード、フランソワーズという老人4人しか住んでいないそうです。島の所有者は、かつて、戦時中に苦しい生活を送った子どもたちを招いて、キャンプを催すという事業をしていました。子どもたちの宿舎に、ドイツ軍が放棄したトーチカが改装されて用いられていました。サンドリーヌの祖母シュザンヌも子どもキャンプで働いていました。ところが、1949年の秋に、一時帰宅する子どもたちを乗せたボートが沈没して、10人の子どもが水死するという痛ましい事故が起きました。それを機に子どもキャンプは閉鎖されましたが、シュザンヌたちは島に残ったのでした。島には1週間に一度しか連絡船が来ないので、サンドリーヌは陰惨な島に1週間滞在しなくてはならないのです。サンドリーヌは、コックのヴィクトールが経営する食堂兼宿舎に滞在することになります。シュザンヌの親友だったというフランソワーズが、ジュークボックスで古いシャンソンを繰り返しかけます。「聞かせてよ 愛の言葉を……」という歌詞の曲です。フランソワーズによると、シュザンヌは孫娘のサンドリーヌのことを常に気にかけていましたが、何かが恐ろしくて、島を出ることも連絡を取ることもできなかったといいます。島の住人たちはそろって「魔王」を恐れていました。翌日、サンドリーヌはポールの案内で祖母シュザンヌの家を訪れます。サンドリーヌは、公証人から渡された地図に、家の横の干上がりかかった沼に建物があるように記載されていたことをいぶかしみます。シュザンヌの家には生活感があまりありませんでした。サンドリーヌは、ポールの案内で、かつて子どもキャンプが催されたドイツ軍のトーチカを見学します。10人の子どもが犠牲となった海難事故の後、このトーチカを訪れる者はいなくなったといいます。トーチカの中の広い部屋に掛かっている時計は8時37分で止まっていました。サンドリーヌは、革のブレスレットで隠した手首の傷が痛み出しました。二人が宿舎に戻ると、フランソワーズが死んでいました。心臓麻痺で倒れて、首があらぬ方向へ曲がっていました。ヴィクトールの知らせで、島から外部へ連絡を取る唯一の手段である公衆電話が壊されていたことがわかります。島民たちは、魔王を恐れながらも、シュザンヌもフランソワーズもサンドリーヌを守るために自殺したのだといいます。子どもキャンプを写した古い写真に写った時計が8時37分をさしていました。8時37分に何があったのか、サンドリーヌは島民たちに聞きます。医師のクロードは、夜の8時37分に魔王が現われるといいます。そして、モーリス、ヴィクトール、クロードと、次々に老人たちは死んでしまいます。若いポールも死んでしまいます。ポールに「この島は君の避難所ではない」と言われたサンドリーヌは、猫を見かけたら殺すように言われ、トーチカの奥の大きな扉の鍵を開けようとします。しかし、トーチカの近くで、死んだはずの祖母シュザンヌに会ったサンドリーヌは、海で遭難する子どもたちの様子を見るように促されます。子どもたちが苦しげに溺れて沈んでいくと、船は消え、子どもたちも祖母も消えました。サンドリーヌは、10人の子どもたちは、事故を装って魔王に殺されたのだと知ります。サンドリーヌは、トーチカの奥の扉を開け、その中へと姿を消しました。

 

(シュザンヌ 1949年)

 島で教育施設の教師として働くシュザンヌは、夏に、大勢の子どもがキャンプに集まってくるのを世話していました。戦争中に悲惨な体験をして心を閉ざした子どもたちを集めて、彼らが子どもらしい素直な感情を取り戻すように仕向けるのがキャンプの目的でした。子どもがいないことを条件に雇われたシュザンヌは、実は本土に子どもがいることを親友のフランソワーズに打ち明けます。フランソワーズも、かつてドイツ兵と恋仲になっていたことを告白します。シュザンヌの娘のモニクも、母の反対を押しきって、戦時中にドイツ兵と交際していました。シュザンヌは、子どもたちの部屋で奇妙な落書きを見つけます。ファビアンという少年の部屋の壁に、マッチ棒に手足をつけたような棒人間の落書きがあり、ドイツ語で「魔王」という文字も書かれていました。ファビアンは、夜になって目をつぶると魔王に連れていかれるので、魔除けに棒人間の絵を描いているといいます。友達のジュリーとピエールのところにも魔王が出るとファビアンはいいます。魔王は、マリーとジュールのところにも訪れたらしく、彼らの部屋にもファビアンは棒人間の絵を描いていました。子どもキャンプの所長は、子どもたちのストレスに配慮して、2週間後に、子どもたちをそれぞれ親元に一時帰宅させることを宣言します。さらに所長は、子どもたち一人一人に1匹ずつ子猫を与えて、責任をもって世話するようにいいます。ペットを得た子どもたちは大喜びでした。一時帰宅の許可と猫のプレゼントで、子どもたちが魔王におびえることもなくなりました。しかし、ファビアンはエミリーの猫を殺し、再び壁に棒人間の絵を描くようになりました。ファビアンは自分の猫を殺して、棒人間の絵を描いたら、魔王は来なくなったといいます。シュザンヌが調べると、全ての子どもが夜中に眠りを妨げられて魔王を見たこと、そして時計の夢を見たことがわかりました。フランソワーズによると、ゲーテの詩にシューベルトが曲をつけた歌曲「魔王」は、森に棲む魔王が森を通る子どもを殺すという話でした。シュザンヌは、トーチカの奥にある開かずの扉の向こうに何かがあると思い、所長の不在中に鍵を盗んで中に入ります。中は、病院のようになっており、患者用のベット、様々な薬剤、手術道具などがありました。さらに、脳波計までありました。この秘密の処置室を覗いているところを見とがめられたシュザンヌは所長に呼ばれて秘密を明かされます。所長は、戦時中にナチス・ドイツが行っていた「生命の泉(レーベンスボルン)」計画と同様に、アーリア人の血を引く子どもを集めて、夜中に実験を行っていました。夜中に、夢にうなされて子どもたちが見た魔王は所長だったのです。子どもたちに飲ませていたココアには鎮静剤が入っていました。子どもキャンプに集められた子どもたちは、みな、ナチス親衛隊員とフランス人女性との間に産まれた子どもでした。所長の仕事は、子どもたちを調べて、ナチスの破壊的遺伝子がフランス再建の障害になるかどうかを見極めることだといいます。しかし、それは嘘で、所長の目的はもっと残虐なものでした。そして所長は、当初の目的を遂げたことで、子どもたちを葬り去ることを考えました。

 

[第二の道しるべ 魔王](1986年)

 ノルマンディー地方の田舎町の海岸で、サンドリーヌと名乗る若い女性が、血まみれの服を着て見つかります。サンドリーヌは、子どもたちが殺されたと言い続けます。地元警察の警部ダミアンは、サンドリーヌを巡る捜査に乗り出します。ダミアンの娘メラニーは何年も前に失踪していました。その件について、かつての同僚パトリスと形式的な連絡を取るのがダミアンの日課になっていました。精神病院に保護されたサンドリーヌは、担当医のヴェロニクに、ある島で子どもたちが集められて魔王によって人体実験を行われ、証拠隠滅のために事故を装って殺されたという話をします。しかし、そのような島は実在しません。ヴェロニクは、サンドリーヌが過酷な体験に襲われて、そのトラウマで、話を作り上げたと分析します。サンドリーヌの話は架空のものでありながら、筋が通っていました。この話には隠された謎があると思われました。サンドリーヌは残酷な経験をして、それを覆い隠すための「心の避難所」として魔王の島の話を作り上げたとヴェロニクは分析しました。ダミアンは、税務署からの連絡で、納税者記録の中に、ヴェルンストという名前があることを知ります。サンドリーヌの話の最初のほうに出てくる、牛の腹に鉤十字のマークをいたずら書きされた農夫の名前がヴェルンストでした。ダミアンは、ヴェルンストの農場へ急行します。農場の中の住居の地下室で、浴槽に浮かんだ多数の猫の死体、そして石で頭を割られたヴェルンストの遺体が見つかりました。地下室には、鎖でつながれた手枷足枷も見つかりました。サンドリーヌの服に付いていた大量の血液は、ヴェルンストのものでした。サンドリーヌはヴェルンストに監禁されていて、ヴェルンストを殺して逃げ出したと考えられました。ダミアンは、サンドリーヌの島での話から抽出したキーワードを集めました。「戦争、シュザンヌ、子どもたち、猫、ゲーテの詩、シャンソン、8時37分、ココア……」などなど。ヴェロニクとダミアンが、ヴェルンストの遺体写真を見せると、サンドリーヌは、自分が監禁されていた事実を認めて顛末を話しました。魔王とはサンドリーヌを監禁、暴行していたヴェルンストのことでした。サンドリーヌは16歳の時にヴェルンストに誘拐され、農場の屋敷の地下室に監禁され、暴行を受けていました。何度も手枷を外そうとして手首に傷を負いました。ヴェルンストは、夜の8時37分にサンドリーヌに鎮静剤の入ったココアを飲ませて朦朧とさせ、暴行を加えました。サンドリーヌは、ゲーテの「魔王」を暗唱して現実逃避しようとしました。そして、壁に棒人間を刻みつけて日付の感覚を維持しようとしました。ヴェルンストは次第に優しくなり、暴行も減りました。差し入れられた新聞にサンドリーヌという女性記者の記事を見つけて、サンドリーヌはその名前を名乗るようになりました。地下室にやって来た猫をポールと名づけて、サンドリーヌは可愛がりました。ヴェルンストが持ち込んだ10匹の子猫にサンドリーヌは、マリー、ファビアン、ピエール、ジュリーといった名前をつけました。サンドリーヌは空想の中で祖母も生き返らせ、祖母の住む島を取材のために訪れる話を作り上げました。そして母の好きだった「聞かせてよ 愛の言葉を……」というシャンソンの歌詞を口ずさんで猫たちをあやしました。ある晩、ヴェルンストは猫たちを浴槽に沈めて殺しました。怒りに燃えたサンドリーヌは、もろくなった壁材の石でヴェルンストを殴り殺し、鍵束を奪って手枷を外し、地下室の鍵を開けて逃げ出しました。こういうサンドリーヌの告白をヴェロニクとダミアンは聞きました。しかし、ダミアンは、サンドリーヌの告白に疑問点を感じました。そこで、ヴェルンストの家の地下室を再調査すると、時計がないことに気づきました。毎日8時37分にヴェルンストが来るというサンドリーヌの話は嘘だということになります。

 

[第三の道しるべ 子どもたち]

 ダミアンは、猫はみんな死んでしまったというサンドリーヌの言葉が気にかかり、ヴェルンストの家に届いていた農業協会の家畜市への出品依頼書を手がかりに、ノルマンディー地方の各地で開かれる家畜市と、子どもの失踪事件とを関連づけました。かつての同僚であるパトリスが調べてくれて、ヴェルンストが参加した家畜市が開かれた各地で、子どもの失踪事件が起きていることをつきとめます。サンドリーヌは再び、架空の島での出来事ばかりを話すようになり、ヴェルンストの地下室のことを話さなくなりました。ダミアンからサンドリーヌの嘘のポイントを聞かされたヴェロニクは、ヴェルンストの地下室での話もまた、架空の島の話と同様に「心の避難所」である可能性があることを話しました。サンドリーヌは想像の中で島に戻って、祖母シュザンヌに話します。地下室に閉じ込められている間に、ヴェルンストの態度が変わり、サンドリーヌに優しくなり、暴行しなくなり、手枷も外し、地下室から出て居間で暮らすようになりました。しかし、ヴェルンストは再び欲望を抑えられなくなり、サンドリーヌの代わりに他の子どもを誘拐してきて、監禁し、暴行を加えるようになりました。毎晩8時37分に、ヴェルンストは牛小屋へ行ってくると言って外出しました。ダミアンが知らされた失踪した子どもたちの名前は、サンドリーヌの話に出てくる島のキャンプに参加していた子どもたちの名前と一致しました。そして、ダミアンは、パトリスから、自分の娘メラニーが失踪した時にも、近くで家畜市が開かれていたことを知らされます。メラニーもヴェルンストに誘拐されていたのでした。ヴェルンストはかつてドイツ軍の兵士だったと考えられました。警察が再びヴェルンストの農場を捜索すると、牛小屋の奥に、第二の監禁場所が見つかりました。誘拐された子どもは、ここに監禁されて暴行を受けていたのでした。サンドリーヌは子どもたちに食事や鎮静剤入りのココアを与えて、ヴェルンストの犯罪に加担していました。ダミアンの娘メラニーに、ヴェルンストの犯罪の事実を聞かされて、サンドリーヌは愕然とします。ヴェルンストは、監禁されていた子どもが死ぬたびに猫を連れてきてそれを可愛がっていました。サンドリーヌは、メラニーを逃がしてやりました。そして、ヴェルンストの猫たちを浴槽に沈めて殺しましたが、メラニーの化身である1匹だけは助けてやりました。そして、ヴェルンストを殴り殺して農場から逃げたのです。ヴェロニクは、ダミアンに、サンドリーヌの話には水に関することが多いと指摘し、祖母の家の隣に物置があるはすが実際には干上がりかけた沼があったという話をします。ダミアンはそこで気づき、ヴェルンストの農場の脇にある沼に飛び込んで、多数の飼料袋を見つけます。袋の中には子どもたちの遺体が入っていました。検死の結果、遺体にはダミアンの娘メラニーのものはありませんでした。サンドリーヌが再び島の話に逃げ込んだのは、このままヴェルンストの共犯者とされても、精神鑑定で無罪になることを見越していたからと考えられました。

 

[最後の道しるべ サンドリーヌの避難所](2019年)

 大学の精神医学の講義で、ヴィルマン教授が、「サンドリーヌの避難所事件」の話を終え、学生たちの反応を観察しました。ヴィルマン教授は解説します。人は極度のストレスにさらされると、自分の意思とは関係なく、脳の命令によって強制的に現実から切り離される。そういう心の避難所には、脳によって強制的に作られたものと、自分で意識的に作ったものがあり、サンドリーヌは両方の避難所に頼っていた。そして、意識的に避難所を作る過程で、ところどころに現実と共通する道しるべを置いていった。しかし、この事件は、インターネットをいくら検索しても出てきません。ヴィルマン教授は、そもそもこの事件は存在しないのだと言います。生徒たちは驚愕します。実は、「サンドリーヌの避難所事件」は、ダミアン警部の想像の産物でした。娘のメラニーが失踪して、実際には、数ヶ月後に沼の中で遺体で見つかっていました。遺体の発見時刻は夜の8時37分でした。その事実に耐えられず、娘の死を認めたくないダミアンは、サンドリーヌにまつわる壮大な犯罪事件の話を作り上げたのでした。つまり「サンドリーヌの避難所事件」の話は、ダミアンの心の避難所だったのです。メラニーが幼い頃に描いた島の絵から、子どもキャンプを行い子どもたちを溺死させた魔王の島を着想し、メラニーの誕生日会に集まった10人の子どもたちの名前を犠牲者の名前にして、メラニーが失踪直前の試験に備えて暗唱していたゲーテの「魔王」をモチーフにして、「サンドリーヌの避難所事件」を作り上げました。ダミアンは精神病院に入院し、ヴィルマン教授が治療にあたりましたが、治療は成功しませんでした。ダミアンは、今でも、自分で作り上げた心の避難所に閉じこもったままなのです。

 

 ストーリーはざっとこのようなものです。

 

 本作品は、何重もの入れ子細工のような構成になっており、メタ・フィクションどころではない、メタ・メタ・メタ・フィクションと呼ぶべき複雑な小説になっています。サンドリーヌの祖母の話があり、島でのサンドリーヌの体験記が第1のメタ・レベルであり、監禁されていたサンドリーヌの話が第2のメタ・レベルであり、全ての話を作りごとにしてしまうダミアンの妄想が、第3のメタ・レベルと言えます。強いストレスにさらされたときに人間が作り出す「心の避難所」というものが、いかに複雑な構造を持ちうるかを示しており、心の深層構造を見事に描き出しています。

 ジャック・ラカンの精神分析理論を借りれば、自分ではどうしようもない現実界の容赦ないストレスにさらされた人間の心が、自分でいかようにも操作できる想像界において「心の避難所」と呼べるフィクションを創作し、それがどんどん複雑化する様態が、本作品では見事に活写されています。そのフィクションは支離滅裂な妄想ではなく、きちんと筋が通っており、現実界とつながる「道しるべ」が隠されています。その道しるべを見つけて、新たな事実の発見につなげようとするのが、本作品に出てくる警察官や精神科医の仕事になっています。普通の推理小説における「伏線」のようなものが、本作品では「道しるべ」として示されており、ちりばめられた「道しるべ」はきちんとメタ・レベルの物語の中に位置づけられるようになっており、普通の推理小説における伏線の回収と同じ仕組みになっています。その構築力は見事なものです。

「心の避難所」の複雑で多層的な構造を描き出すことで、著者は、人間の頭脳の構造の複雑さと一種の頑健さを描き出していると言えます。深い悲嘆にさらされた人間が、それを合理化して乗り越えるために、いかに複雑なフィクションを創造するかということを見せつけています。一見、奇怪で奇妙な物語ですが、実際に起きてもおかしくない出来事にも思えてきます。特に、第3のメタ・レベルの物語を生み出したダミアンの、娘を失った悲しみと絶望の深さと、それを何とか糊塗しようとするダミアンの心の働きの複雑さと頑健さが、読後に印象深く残ります。

 普通の推理小説では、一読したりネタバレしたら再読する気になりにくいものですが、本作品は、全ての真相を知った後でも、再読したくなります。再読することで、こんなところに「道しるべ」が置かれていたのかと気づき、著者の緻密な構成力に感嘆することになるでしょう。