今昔変わりない監視社会の恐怖 | ほうしの部屋

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 アンドレアス・エシュバッハの歴史改変SF長編小説『NSA』を読了しました。

 エシュバッハは1959年生まれのドイツ人で、コンピュータ科学の教育を受け、ソフトウエア開発者としてキャリアを積みました。一方で、12歳の頃から小説を書き始め、発表するSF小説が評価されるようになると、コンピュータ関連の仕事を辞めて作家業に専念しました。ドイツの大きな文学賞を何度も受賞しており、本作品『NSA』も受賞しています。

 本作品は、20世紀前半の、特にナチス・ドイツの時代に、コンピュータやインターネット、携帯電話などが存在したと仮定した、歴史改変SFです。コンピュータ・ネットワークの発展、電子決済などの普及により、市民の活動がデータ化されて把握できるようになっており、それが、ナチスによる国民統制、秘密主義、言論抑圧、人権侵害、民族迫害などと親和性を持っています。一見、突飛な設定なのですが、著者の筆力もあり、この設定が自然に感じられるように読めてしまいます。秘密兵器を数々開発したナチス・ドイツの歴史的事実性からすると、コンピュータやネット環境などを整備しても不思議はないようにも思えてくるのです。

 

 それでは、本作品の内容を紹介します。

 

 20世紀前半のドイツで、現在同様のコンピュータが開発されました。19世紀のバベッジの解析機関のアイデアを発展させて、電気的に駆動し、プログラムで動き、データサイロ(クラウドのようなもの)に莫大なデータを蓄積して分析に寄与する、電子的計算機つまりコンピュータがドイツで開発されました。コンピュータ技術は世界中に広がっていきます。それが、第二次大戦前のナチス政権下でさらに発達し、社会には携帯電話が普及し、決済が電子化され、キャッシュレス化が進みます。コンピュータや携帯電話をつなぐ、インターネットのようなワールドネットも開発され、世界中がつながります。人々は、ネットに接続して、フォーラムで意見を交わしたり、情報収集を行います。そういうネットを介した人々の生活、政治活動、経済活動、文化活動、金銭取引など、あらゆる情報を集約して分析し、危険人物を特定したり、外国へのハッキングや干渉を行う組織として、NSA(国家保安局)が作られます。NSAの前身は第一次大戦から存在しました。本部はワイマールに置かれ、戦間期には、反政府的活動や暴動などの抑止に一役買っていました。コンピュータから得た情報を分析するのは男性の仕事で、コンピュータのプログラミングは女性の仕事とされていました。プログラミングは編み物に例えられて女性に適性があるとされ、プログラミングの仕事をする女性はプログラムニッター(プログラムを編む者)と呼ばれました。NSAのアナリストであるオイゲン・レトケとプログラムニッターのヘレーネ・ボーデンカンプが主人公です。レトケは、子供の頃に自分に酷い虐待をしたクラスメイトたち、特に女のクラスメイトたちに復讐するために彼女たちの情報を集めていました。女性の行動履歴やフォーラムでの発言などで問題を発見し、それを相手に突きつけて、罪に問われないようにする見返りに、陵辱を加えました。そうやって、子供時代の恥辱の復讐をしていったのです。ヘレーネは女性的魅力に乏しい平凡な容姿でしたが、祭りで知り合ったアルトゥールに恋心を抱き、後に彼が脱走兵として逃げてきたとき、親友のマリーの農場に匿います。ヘレーネとアルトゥールは愛し合うようになります。恋人の脱走兵が発覚しないように、ヘレーネはNSAで密かに、証拠を隠滅するプログラムを書き、起動させていました。ワイマールのNSAは、ゲシュタポや親衛隊の属するベルリンの国家保安本部から有効性が問題視されていました。そこで、ヘレーネはキャッシュレス決済の記録から各家庭の食糧購買額を割り出し、実際の世帯人数との差から、誰かを隠している徴候を探るプログラムを開発します。ヒムラーの面前でそのプログラムを動かし、オランダの商店が一家で必要な分以上の多量の食糧を買い込んでいるのを突き止め、隠し部屋の存在を明らかにします。そこに匿われていたユダヤ人一家には、あのアンネ・フランクがいました。NSAの優秀性を認めたヒムラーは、ワイマールからベルリンへの移転を打診します。ヘレーネが、国家から禁止されているコンドームをレトケの部屋から盗んだことをレトケに咎められて、コンドームの件には目を瞑る見返りに、ヘレーネはレトケにプログラミングを教えることになります。レトケは、復讐対象の女の一人がアメリカに逃げたことを知り、自分でプログラムを書いて、アメリカのネットに接続し、追跡します。その過程で、レトケとヘレーネは、アメリカのマンハッタン計画(原爆開発計画)の秘密を探り当ててしまいます。レトケは、アメリカの原爆開発計画を盗んだことを顕彰されて、ベルリンでヒトラーに面会を許され、勲章の授与を約束されます。ドイツに残っていた、ハイゼンベルグ、オットー・ハーンといった超一流の物理学者たちが集められ、アメリカからの情報をもとに、原爆開発を進めるように命じられます。その頃、ベルリンでは、計算機科学や脳科学の第一人者たちが研究を進め、脳神経細胞のシナプス結合を応用した、ニューラル・ネットワークを持つコンピュータすなわち人工知能の開発に成功していました。彼らは、NSAに乗り込んできて、NSAのコンピュータの人工知能化を進めます。ヘレーネのようなプログラマーもレトケのようなアナリストも必要なくなることになります。人工知能の分析により、レトケは個人的復讐のためにNSAを利用していたことを咎められ、職を追われ、戦場の最前線に召集されることになります。ヘレーネも、恋人のアルトゥールを匿って、そのためにコンピュータ情報を改竄していたことを咎められます。ヘレーネは、自分に色目を使っていた大嫌いな親衛隊の指揮官であるルドルフに、結婚を条件に、アルトゥールを南米に逃がしてくれるように頼みます。ヘレーネは、ルドルフとの夫婦生活を我慢しながら、隣人の牧師の協力で、南米への逃亡計画を立て、実行しますが、船に乗る直前に、ルドルフたち親衛隊に捕まってしまいます。アルトゥールは南米で絶望のあまり自殺してしまいました。米国の情報を役立てて開発した原爆をロンドンとモスクワに落としたナチス・ドイツは、第二次大戦の勝者となります。希望を失ったヘレーネは、ネット上のドイツ・フォーラム(掲示板)にヒトラーに対する罵詈雑言を書き込み、逮捕され、収容所に送られます。そこで、脳内に電極を埋め込まれ、電気刺激により、ヒトラーへの愛を叫ぶように精神改造を施されてしまいます。レトケは、絶望のあまり、拳銃で頭を撃って自殺を図りますが、一命をとりとめ、廃人のようになります。第1級のアーリア人であると人種的には認定されていたレトケは、ナチスが、ドイツ民族の健全な生殖を図るために建設したレーベンスホルンに収容され、定期的に精子を採取され、廃人同様のアーリア人の種馬として余生を送ります。

 

 ストーリーはざっとこのようなものです。

 

 現在に通じるコンピュータの正確な歴史としては、第二次大戦中にイギリスの天才数学者アラン・チューリングがドイツのエニグマ暗号の解読のために開発したボムと呼ばれる計算機、アメリカのフォン・ノイマンが弾道計算のために開発したエニアックが始まりです。両者ともに無数の真空管が並ぶ、一部屋ぐらいの大きさの代物でした。その後、IBMなどがコンピュータの小型化を促進し、コンピュータ同士をつなぐネットワークの研究も進み、1970~80年代にアメリカで軍用に発展しました。それが1990年代に民間に開放されて、現在のインターネットが始まったわけです。

 本作品の題名でもあり、そこに登場する組織であるNSA(国家保安局)は、現在のアメリカのNSA(国家安全保障局)のメタファーだと考えられます。現在実在するアメリカのNSAも、コンピュータやネット環境に深入りして、通信を傍受し、莫大な情報を世界中から集めています。その実態は、エドワード・スノーデンの内部告発(ウィキ・リークス)により明らかになりました。ネット社会を利用して、情報収集、秘密工作、市民監視などを行う機関は、古今東西を問わず、存在すると言えます。本作品で、コンピュータやネット環境、キャッシュレス決済、携帯電話などが普及すれば、当然のごとく、その通信環境を利用して、市民を監視したり秘密工作を行う組織が生まれるというわけです。NSAは決してナチス・ドイツの機関ではなく、その前のワイマール共和国の時代に組織化されています。世界で最も民主的と呼ばれたワイマールで、市民を監視する秘密機関が暗躍し、それがナチスに引き継がれたというのは、示唆に富んでいます。

 本作品の二人の主人公であるヘレーネとレトケは、NSAの仕事を真面目にこなしながらも、個人的な目的のために、組織やコンピュータ、ネットを利用しています。ヘレーネは恋人を助けるために、レトケは過去の復讐をするために、NSAの設備を利用します。そのことが、アメリカの原爆開発情報を得るという、とんでもない成果につながるのは皮肉です。こうした主人公たちの人間くさい動機や振る舞いが、突飛な発想のSF的設定の中で、物語にリアリティを与えていると言えるでしょう。

 本作品の結末は、NSAの活躍もあり、ナチス・ドイツが第二次大戦の戦勝国になり、ナチス体制が続くことになります。一種のディストピアですが、ナチスは存在せずとも、現在の世界もまた、監視社会のディストピアを胚胎しており、それは各所で現実化しているとも言えるでしょう。コンピュータ、ネットワーク、人工知能、携帯通信機器、キャッシュレス決済といった、情報科学の進歩は、私たちの生活の利便性を高め、情報アクセスの容易性を向上させますが、同時に、監視され、統制され、無意識的に何らかの意図に従わされるという、恐るべき事態を引き起こしているのです。その現実感が、本作品を、単なる突飛な歴史改変SFとしてでなく、読者に何とも言えないリアリティをもって迫ってくる傑作に仕立てていると言えるでしょう。