浮遊するテクストの断片たち | ほうしの部屋

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 デイヴィッド・マークソンの実験的長編小説『ウィトゲンシュタインの愛人』を読了しました。「小説」と紹介しましたが、小説と呼べるのかどうかも疑問です。一人称の(「私」の記憶が辿る)テクストの断片が行きつ戻りつして、決して物語のような体裁を作ることはありません。浮遊するテクストの断片の中で、読者もまた浮遊するのです。

 

 マークソンは、日本ではほとんど知られていないアメリカの作家です。1927年に生まれて2010年に亡くなりました。若い頃は、コロンビア大学で文学を教えていました。娯楽的な作品ばかり執筆していましたが、1988年に発表した『ウィトゲンシュタインの愛人』が傑作実験小説として注目を浴び、20世紀アメリカ前衛文学の巨匠と目されるようになりました。この作品は、1988年にアメリカで発表されたのに、日本語に翻訳されて出版されたのは、今年(2020年)になってです。そもそもマークソン自身、『ウィトゲンシュタインの愛人』の草稿を54の出版社に持ち込んで断られたそうです。

 

 この作品のあらずじをまとめるのは困難です。物語、いや、小説と言えるかどうかも疑問です(何らかのテクストであることは事実ですが)。設定はSF的です(しかしSF小説ではありません)。

 地上から人間や動物が消えてしまい、最後の一人として生き残った主人公の女性ケイトが、アメリカの海岸沿いの誰かの家に住みつき、その日暮らしをしながら、心に浮かぶことをタイプライターで文章に打っていく、その文章(テクスト)が、この作品です。終末世界での日常生活、中年の年齢になった自分の身体のこと(生理や節々の痛みなど)、周囲の風景のこと、絵画を巡る随想(ケイトは画家だと思われます)、住みついた家の蔵書のこと、日々考えるとりとめのない随想、家族と暮らした過去の思い出、生存者を探しながら放置自動車を乗り継いで世界中を旅して回った冒険の思い出、世界中の有名な美術館で額縁などを燃やして暖を取りながら暮らしたこと、ギリシアを訪れて神話世界に思いを巡らせたこと、などなどを、思いつくままに書き綴っていきます。古代ギリシアのトロイ戦争の顛末や登場人物にケイトはこだわりを持っています。また、作家、音楽家、画家、学者などについて記憶に残っている知識や情報も披瀝しますが、そのどれもが、作家論、作品論などとはほど遠く、有名人の人生に関する逸話やゴシップばかりです。登場する人物名も時折、誤りがありますが、それを修正することもありません。ケイトは、タイプライターを相手に、話し相手のいない雑談を繰り広げていくだけです。中年女性同士の無駄話(世間話)を独言で行っているようなものです。

 この作品の題名から期待されるのは、大哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインとの関係ですが、ウィトゲンシュタインに関しても、彼に関する(事実かどうかもわからない)逸話がいくつか出てくるだけです。ただ一つ、『論理哲学論考』に書かれているウィトゲンシュタインの有名な言葉である「世界はそこで起きていることのすべてだ。」だけが作品に出てきます。主人公ケイトは、書くことを通じて、起きていること(起きたことも含む)を羅列して、自分だけの(独我論的な)世界を作っているようにも思えます。ウィトゲンシュタインは、同性愛の傾向があり、若い頃、バカンスで海岸沿いの別荘で女性と暮らしてうまくいかずに別れるという経験をしていますが、そのことと、この作品、さらに題名の『ウィトゲンシュタインの愛人』は全く関係がありません。「事物が人の頭の中にだけ存在しているという問題はいまだに少し、私を悩ませているかもしれない。」というケイトの一文は、哲学における実在論と経験論(独我論)との対立を示唆し、ケイトがタイプライターで打つテクストのみが事物の存在の証であることに加えて、ウィトゲンシュタインの「独我論はまったく正しい」という言明にも関わりを持つと考えられます。

 

 主人公ケイトは、数冊の本が残った書棚以外は何も無いような部屋で、一人、タイプライターに向かっています。デンマークの画家ハムマスホイの絵画を思わせます。何も無い部屋を描いたその作品の数々は、何も無い不安を醸し出すとともに、何かがいるような予感も感じさせます。それは、ケイトが、居もしない猫が窓ガラスを引っ掻いているという幻想を抱くのにも似ています。

 この作品のコンセプトは、過去の実験的作品(実験的手法)の影響を受けていると思われます。ジョイスやプルーストの「意識の流れ」やブルトンの「自動書記」やフロイトの「自由連想法」を下敷きにして書いているような印象があります。思いつくままに、支離滅裂になることを恐れず、言葉を綴っているのです。それが何らかの意味を生むのか生まないのかは、読者の読みにかかっています。

 この作品は、本を閉じて、目を瞑って適当に開いたページから読んでも、成立します。いや、「成立」という表現は正しくありません。むしろ、物語として成立していないからこそ、どこから読んでも読書が成立するという逆説を抱えている作品と言えるでしょう。

 この作品は、テクストの断片、エクリチュール(書かれたもの)の断片が寄せ集まってできたものです。フーコーの言う「言表」の寄せ集めと呼べるかもしれません。断片は孤立していますが、どこかでどこかの断片と共鳴もします。それにより、読者は、行きつ戻りつする主人公ケイトの思考に巻き込まれていくのです。それは、海岸の砂浜で、砂粒同士が、寄せる波によって集まったり散らばったりするのに似ています。この思考の集散が、美しい断片の数々を経めぐることで、快楽を催します。あらすじも意味も曖昧なのに、作品(テクスト)を読む快楽に浸ることができます。

 この作品にウィトゲンシュタインの哲学そのものはほとんど出てきませんが、独我論的世界観を持ち、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を文学作品にしたら、こうなるのではないかと思わせるところはあります。