ほうしの部屋

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 上野の国立西洋美術館で開催中の「チュルリョーニス展 内なる星図」を観てきました。

日本ではマイナーな画家なので、大して混んでいないだろうと思って行ったら、チケット売り場に大行列ができていました。それは、「葛飾北斎 富嶽三十六景」展と併設されていたからだろうと思います。どちらかのチケットで両方観られるのです。たぶん、チュルリョーニスだけでは客が呼べないと考えて、北斎で釣ったのだろうと思います。

 ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス(1875年~1911年)は、北欧バルト三国のリトアニアを代表する芸術家です。音楽と美術の両方で成功を収めました。始め、作曲家としてスタートし、20歳を過ぎてから、絵画作品も手がけるようになり、35歳の若さで亡くなるまでの6年ほどで300点を超える作品を残しました。チュルリョーニスが作曲した楽曲の多くも、たびたび世界中で演奏されています。生誕150年を迎えるチュルリョーニスの偉大な業績を振り返るイベントがリトアニアでは盛んに行われ、その流れで、80点を超す絵画作品が、このたび、日本に貸し出されました。日本では34年ぶりの回顧展です。

 チュルリョーニスは、1875年、リトアニア南部の小さな町で生まれました。父はオルガン奏者でした。家庭は裕福ではありませんでした。チュルリョーニスは、5歳にして耳で聴いただけの曲をピアノで弾き始め、7歳で、父の働く教会でオルガン演奏を覚え、楽譜を読みこなすようになります。14歳で音楽学校に入り、初めて作曲を行います。18歳でワルシャワ音楽院に入学し、ピアノを学びます。22歳で作曲専攻に転向します。24歳で音楽院を卒業、25歳の時、ピアノ曲が初めて刊行されます。同時に、交響詩「森の中で」がコンクールで受賞します。26歳でライプツィヒ音楽院に入学し、オーケストレーションと対位法を学びます。リヒャルト・シュトラウスやベルリオーズの作品を研究します。カノンやフーガを多く作曲します。また休暇中に絵を描くようにもなります。音楽教員の資格を得て、音楽の個人レッスンなどで生活費を賄うようになります。27歳で絵画の学校に通います。自作の音楽にインスピレーションを得た絵画の連作を描きます。29歳でワルシャワ美術学校の1期生として入学します。チュルリョーニスの才能を評価して生活を援助するパトロンを得ます。30歳を過ぎる頃から、精力的に画業に勤しみ、同時に、新しい楽曲も作曲し、オーケストラの指揮者としても働くようになります。32歳頃から、母国リトアニアで絵画展を精力的に開催します。1909年に34歳で結婚し、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルク(リトアニアはロシアの領土でした)で、展覧会や演奏会に、自分の作品で参加します。音楽作品は、スクリャービン、ストラビンスキー、ラフマニノフなどの作品とともに演奏されました。しかし、多忙な生活から精神に変調をきたします。ワルシャワ近郊のサナトリウムに入院します。療養中も、チュルリョーニスの作品は、音楽も絵画も、各地で紹介され、評判を上げました。娘が生まれます。しかし、1911年に風邪をこじらせて肺炎になり、35歳の若さで亡くなりました。チュルリョーニスの遺作展がモスクワで行われました。

 リトアニアでは、チュルリョーニスの死後まもなく、国立のチュルリョーニス美術館が作られ、チュルリョーニスの作品が散逸しないように収集しました(今回の展覧会もこの組織のコレクションがメインです)。チュルリョーニスの仕事、特に画業は、病気になって35歳という若さで死去した直後から、各地で高い評価を得るようになりました。リトアニアだけでなく、ポーランド、ドイツ、ロシアなどでも、展覧会が催されるようになりました。

 

 チュルリョーニスは、ロシア帝国の圧政に苦しむリトアニアの暗黒時代に活動しました。1904年になってリトアニア語による出版禁止令が解除されると、激しい民族復興運動が起こり、知識人の多くが加わり、チュルリョーニスも例外ではありませんでした。1907年頃には、リトアニア本国に戻って、作曲家、指揮者、画家として活発に仕事をし、この頃に、後の妻になるソフィヤとも知り合います。ソフィヤは、主に詩作や評論など執筆活動によって夫の仕事を支えました。1908年、サンクトペテルブルクにおいて、念願の展覧会が開かれましたが、チュルリョーニスの作品群は、ことごとく酷評されました。収入のないチュルリョーニスは、妻からの仕送りに頼らざるを得なくなり、困窮と多忙と過労から、心身に異常をきたし、サナトリウムに入院しました。娘が生まれましたが、チュルリョーニスは虚弱になった身体のために、風邪をこじらせて肺炎になり、35歳の若さで亡くなってしまいました。皮肉なことに、チュルリョーニスの死後数年経ってから、ようやく、彼の作品や天才性を高く評価する動きが盛り上がりました。

 チュルリョーニスの絵画作品の多くは、国立の美術館に収集されましたが、ソ連の領土に組み込まれた間は、チュルリョーニスに関する情報は、西側諸国にはほとんど知られませんでした。冷戦が終結し1991年にリトアニアが独立すると、チュルリョーニスの仕事は旧西側諸国にも知られるようになります。象徴主義、抽象芸術、絵画による音楽表現、オカルティズム、神智学といたテーマの展覧会で、チュルリョーニスの作品も頻繁に展示されるようになり、高い評価を得るようになりました。国外での最初の大回顧展は、1992年に東京のセゾン美術館で開催されました。その後、2000年の生誕125周年では、パリのオルセー美術館で回顧展が大々的に開かれました。

 チュルリョーニスの絵画には、哲学的、心理的、宗教的思索、さらには諸芸術の総合という志向が色濃く表れています。宇宙の起源とその構成要素、世界を動かす精神、自然とその循環、人間存在の意味、精神状態の進化、音楽的な構成原理を絵画において実現する可能性に関心を持っていました。19世紀末から20世紀初頭に支配的であった象徴主義、ロマン主義、分離派、抽象主義などの潮流を融合させています。ルドン、モロー、ホイッスラー、ムンク、などの影響を受けていると見られます。

 チュルリョーニスの絵画は、飛ぶ鳥の視点を思わせる独特な空間感覚を備え、宇宙的ヴィジョンの感覚に満たされています。人間的なものと宇宙的なものを統合することを試みています。

 チュルリョーニスは象徴主義、神秘主義、汎神論、神智学、オカルティズムなどを背景に持つ作品を多く遺しましたが、同時に、リトアニアの伝統文化、民俗学に触れるような作品も多く描いており、神秘的なものと伝統的なものが合体したようなイメージも少なくありません。チュルリョーニスはワルシャワの美術学校時代に、神智学、インド哲学、太陽崇拝(エジプト)などを吸収しました。代表的な作品「祭壇」も、宇宙と人間の構造を7段階に分けており、神智学からの影響が見てとれます。また、リトアニアの伝統的な特殊な十字架や屋根のついた柱を数多く描いています。

 チュルリョーニスの絵画作品で、もっともコンセプチュアルで出来の良いシリーズは、自分が作曲した楽曲の世界観を絵画化したものです。ソナタ形式を模した4部作などを多く描きました。例えば、森林と水面に映る木の姿を描いた作品は、音楽のフーガ形式(対位法)のイメージを絵画に投影したものとして極めて優れています。水面に映る木々は、楽曲の対位旋律を表現していると思われます。水面に映る木々が、陸地の木々とはややズレたり反対方向を向いているのは、フーガ(対位法)の逆行旋律を表わしているようです。

 逆に、絵画の世界を音楽にしたものとしては、ムソルグスキーのピアノ連作(後にラヴェルが交響曲にアレンジ)『展覧会の絵』が有名ですが、絵画と音楽の関係を語る上で、チュルリョーニスの、音楽を絵画で表現した作品群も重要な意味を持っていると言えるでしょう。

 チュルリョーニスは、リトアニア初のグラフィック・アーティストでもありました。絵画展のパンフレットの装丁や、頭文字のデザインなど、多彩な仕事を遺しています。ワルシャワ美術学校で学んだ、最先端のフッ素エッチング(ガラスをフッ化水素で腐食させる)の技法も盛んに取り入れていました。

 また、祖国の独立や名誉回復を求める運動の一環として自らの芸術活動を位置づけたチュルリョーニスの行為は、パリでのグラフィック・アートの成功を投げ捨てて、故郷チェコの独立運動の苦難を巨大な連作絵画に仕立てた、アルフォンス・ミュシャに似ています。長いこと諸強大国の属領にされていたリトアニアは、19世紀~20世紀にかけての期間に少しずつ近代国家の体裁を持つようになっていきました(それでもまだロシア領)。そこで民族のアイデンティティを強調する表現があふれ、チュルリョーニスもそういう作品を、絵画でも音楽でも作りました(音楽では民謡の収集も行いました。ハンガリーのバルトークやコダーイを思わせます)。1904年の日本との戦争に敗れたロシアは、諸民族に対する圧政を緩めざるをえませんでした。リトアニアでも、リトアニア語やラテン語での表現の自由が認められました。リトアニア語の新聞で、チュルリョーニスの芸術は盛んに取り上げられました。造形的な構成が音楽の思考を反映していること、自然を崇め、悲しみや神秘主義を体現する汎神論者であることが説明され、この芸術家の評価がもっと上がるべきだと訴えられました。

 そういえば、今回の展覧会は葛飾北斎の富嶽三十六景の展示と抱き合わせでしたが、ここにも深い意味があったようです。チュルリョーニスは、オリエンタルな思想に興味を持っており、その一環として東方の芸術にも目を向けていました。その中で、日本の浮世絵にも大きな影響を受け、特に北斎の作品に模範を観ていたようです。鳥の目のような視点は、浮世絵からの影響も大きいようです。そういう意味で、北斎の作品とチュルリョーニスの作品には、何らかの親和性があると言えるでしょう。ですから、今回の抱き合わせ展示は、単にチュルリョーニスの無名性に対する保険ではないと言えそうです。

 

 チュルリョーニスの音楽を聴きたい方は下記のアドレスで↓

https://www.youtube.com/watch?v=pUnX9dLD16Y&list=RDpUnX9dLD16Y&start_radio=1

https://www.youtube.com/watch?v=qBWeEZeux1g&list=PLjMPe9tntL7Hd9rnyFY_CZsnguCqMy8QF

https://www.youtube.com/watch?v=8szo-c0Vp_Q&list=RD8szo-c0Vp_Q&start_radio=1

https://www.youtube.com/watch?v=4MLzyR6vXm4&list=RD4MLzyR6vXm4&start_radio=1

https://www.youtube.com/watch?v=v9DOsSY15Z8&list=RDv9DOsSY15Z8&start_radio=1