ほうしの部屋

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 ジル・ドゥルーズの『経験論と主体性 ヒュームにおける人間的自然についての試論』を読了しました。

 22歳の若きドゥルーズが、イポリットとカンギレムの指導のもとで執筆した研究論文をもとにした初期の重要作です。ドゥルーズ生誕100年を記念して、新訳・改訳を加えて文庫化されました。22歳といえば、日本では大学4年です。その年齢で、早くも、晩年の著作に匹敵する難渋な考察と表現を繰り広げており、ドゥルーズの天才性がうかがわれます。

 イギリスの経験論哲学の泰斗であるデヴィッド・ヒュームの理論を読み解く内容です。ヒュームは、大陸の合理論(理性の優位性を主張する)の哲学者たちから批判にさらされましたが、ドゥルーズは(フランスという)大陸の居住者でありながら、ヒュームに深いシンパシーを感じています。後に、ドゥルーズの哲学が「超越論的経験論」「超越論的懐疑論」などと呼ばれるようになる端緒となるような考察が、本書には見られます。

 

 デヴィッド・ヒューム(1711年~1776年)は、18世紀のイギリスの経験論(懐疑論)を代表する哲学者です。当時、ヨーロッパでは、デカルトに代表される、人間は理性のみで真実に到達できるという合理論哲学と、ロックやヒュームに代表される、人間は経験から得られるものが全てだと考える経験論(懐疑論)との対立が鮮明でした。イギリスでは経験論が、フランスやドイツなどヨーロッパ大陸では合理論が優勢でした。ヒュームは『人間本性論』で、経験論の総括を試みました。私たちの心の中に生じるものは「印象」と「観念」であり、観念は印象の粗いコピーです。人間は印象によって正当化されない観念を頻繁に抱きます。言明には「論証的」言明と「蓋然的」言明しかありません。論証的言明とは、2+2=4のように真偽が自明な言明です。蓋然的言明は、経験によって真偽を確かめることを要求します。帰納的推論によって、いかなる蓋然的言明も、真偽を確認できない以上、信念に頼るしかありません。知識を求める私たちの核心にあるのは、理性ではなく「信念」なのです。それは「現在の印象に関係する、あるいは関連づけられた生き生きとした観念」です。帰納的推論に対する合理的正当化が見当たらない場合、「習慣」がしかるべきガイドとなります。ただし習慣には注意点があります。二つの出来事の間に原因と結果を推論する前に、そうした出来事の継起にこれまで別のパターンがなかったということと、これらの出来事の間には必然的結合が認められるということの確証が持てなければなりません。そこに信念と習慣が深く関わってきます。理性の出る幕はありません。私たちの信念によって引き出された結論は、論証的な結論と同じぐらいに精神にとって満足のいくものです。私たちは、自分の信念に対して合理的根拠を欠いていますが、この信念が蓋然的であることは、習慣が教えてくれるのです。このようなヒュームの考え方は、後生の哲学者に大きな影響を与えました。カント、ショーペンハウエルにヒントを与え、マッハら論理実証主義者たち、カール・ポパーの反証可能性の理論にも影響を与えました。

 

 さて、このようなヒュームの経験論について、ドゥルーズはどのような考察を展開したのでしょうか。経験論において、主体(主体化)はどのように立ち上がってくるのかがテーマです。便宜的に、逆読みになりますが、結論部から見ていくことにします。

 

[結論 合目的性]の要点

 相補的諸原理(連合諸原理と情念の諸原理)が、精神そのものを主体にし、空想を人間的自然にするということ、つまり、所与のなかに主体を打ち立てるということ。というのも、目的と関係をそなえた精神、しかもその目的に応答する関係を備えた精神が、一個の主体であるからです。主体は精神(空想)のなかでの諸原理の結果=効果であるのですが、結局のところ、主体へと生成するのは精神であり、おのれを超出するのはやはり精神なのです。要するに、主体は諸原理によって構成されるということと、主体は空想にもとづいているということとを、同時に理解しなければならないのです。

 認識の領域において、わたしたちは、精神が主体に生成するときの精神の活動を表す公式的表現、すなわち連合のすべての結果=効果にあてはまる公式的表現をもとめましょう。超出するということは、いつでも既知のものから未知のものへ赴くことです。一方では、既知の事情から未知の事情へ赴き、他方では、既知の関係から未知の関係へ赴くのです。そこに、ヒュームが重要視している区別、すなわち証明と確信(確実性)との区別が見出されます。

 精神の活動は、認識の場合と同様に情念においても、空想にもとづいているのです。

 どのようにして主体の二つのアスペクトが一体をなすのか。その二つのアスペクトとは、主体とは、精神のなかでの諸原理の所産であるが、自己自身を超出する精神でもある、ということに他なりません。

 精神はいつ主体へと生成するのか。それは一方では、精神がおのれの生気を奮い起こして、結果的に、生気を特徴としている一部分(印象)がその生気を他の一部分(観念)へ伝えるようにするときであり、他方では、一括されたすべての部分が何か新しいものを生産しながら共鳴するときです。そこに超出の二つの様態、すなわち信念と考案(発明)があります。

 主体は期待するだけでなく、自己自身を保存しもします。すなわち主体は、本能を介してであるにせよ考案(発明)を介してであるにせよ、所与の諸部分の全体に反応するのです。その場合でも、やはり、所与はおのれの別々の諸要素を結合して一個の全体にすることはないというのが事実です。要するに、わたしたちは、信じそして考察することによって、所与そのものをひとつの「自然」(人間的自然)に仕立て上げるのです。その「自然」は「存在」に一致しています。つまり、人間的自然(人間本性)は「自然」そのものに一致しているということです。わたしたちのおこなうことにはそれなりの諸原理があります。そして「存在」とは、わたしたちがおこなうことの諸原理そのものに総合的に関係づけられる対象としてしか、決して把握されえないものなのです。

(補足)[第5章 経験論と主体性]の結論部

 関係が諸事情から分離されていないのは、また主体にとって厳密に本質的である特異な内容から当の主体が分離されえないのは、主体性がその本質において実践的だからです。それ(主体性)の決定的な統一、すなわち関係それ自体と諸事情との統一が開示されるのは、動機と行動との関連、手段と目的との関連においてです。事実、そうした「手段―目的」関連、「動機―行動」関連は、関係であるが、しかしまた別のものでもあります。理論的主体性は存在しないし存在しえないのであり、まさにこのことが経験論の基本的命題へと生成するのです。ですが、それをよく眺めてみれば、主体は所与のなかで構成されるということを、別のかたちで言っているにすぎません。主体が所与のなかで構成されるのであってみれば、事実、実践的主体以外の主体は存在しないのです。

 

 このままでは何を言いたいのかよくわかりませんが、要するに、「主体」というものが精神から生成する際にも、ヒュームの言う「信念」が重要な働きをしているということでしょう。精神が奮起して、印象を観念に伝えようとするとき、精神から主体が生成するということです。ここに経験論の要諦との接点が明確に表われています。精神が、経験(観察)を経てその印象を、印象のカーボンコピーである観念に伝えようとするときに主体が生まれるのです。ここに、ヒュームにヒントを得た、ドゥルーズの「主体への疑い」が如実に表われています。主体とは、一般的に思われがちな、理性を伴った強固な、核心的な存在ではなく、経験を精神の中で処理する際に生じる、やや頼りない、手段としての存在なのです。観念が印象を正確に反映できないということは、主体の働きが不十分であり、不正確であり、揺らぎを含んでいるということです。主体とは、一般的に思われているような確固たる信頼に足る存在ではないのです。これが、一生を通じてドゥルーズが抱く「主体」観に通底していると言えるでしょう。

 

 ところで、本題からはやや外れますが、[第6章 人間的自然の諸原理]の中で、ドゥルーズは、哲学の本質について、教科書に載せたいぐらいの明快な定義づけをしています。

 哲学的理論とは展開された問なのであって、それ以外の何ものでもありません。なぜなら、哲学的理論の本領は、それ自体によってもそれ自体においても、問題を解決することにあるのではなく、明確に述べられた問に必然的に折り込まれている意味を徹底的に展開することにあるからです。問が適切でありかつ厳密であるという前提のもとに、哲学的理論は、ものごとはどうなっているのか、ものごとはまさにどうなっていなければならないのかを、わたしたちに教えてくれるのです。

 問を批判することの意味は、どのような条件のもとで問は可能であり適切に立てられているのかを、すなわち、問がその問でなくなれば、どうしてものごともそれ自身のままであることがなくなるのかを示すということです。ということは、問うことと問を批判することの二つは、一心同体をなしているということです。

 解答に対する批判というものはなく、ただ問題に対する批判があるだけです。

 

「哲学の徒は、まともな問を立てられれば一人前」という教科書的示唆に対して、ドゥルーズもまた従順だと言えます。まだ22歳のドゥルーズが、哲学の授業で師から徹底的に叩き込まれたことが、思わず、自分の論文にも表われてしまったような感じもします。「哲学とは問を立てることである」という基本に、ドゥルーズほどの人でも、やはり忠実だったのだとわかります。その後、ドゥルーズは自らの仕事の中で、いくつもの重要な問を発していきます。「ヒュームの経験論において、主体はどのように立ち現れるのか、主体はどのように可能なのか」という問が、本書の中で明確に表われてきます。しかし、その問と答えは、結論部において、ようやく鮮明に姿を現わすのです。

 

 もう一つ、[第4章 神と世界]において、ヒュームの経験論における宗教の位置づけをドゥルーズはどう見ているかを一覧しましょう。ヒュームは無神論者です。ドゥルーズも無神論者であり無宗教者であり、そのことがヒュームの経験論にシンパシーを持つ大きな原因の一つであるとも考えられます。この章において、ドゥルーズは、経験論における神や宗教の位置づけについて、かなり厳しい見方で同意をしています。

 宗教心は偶発的なものを本質的なものと混同してしまいます。感性的世界のなかでわたしたちが経験する不思議な出会い、例外的で幻想的な事情、わたしたちが取り違えて本質とみなしてしまう未知の現象、まさしくそれらによって宗教心が目覚めます。以上のような混同こそ、迷信のそして偶像崇拝の定義です。

 偶像崇拝者とは、「技巧的な(人為的な)生活」を送る人間であり、異常なことがらを本質に仕立て上げる者であり、「至上の存在への直接的な奉仕」を探し求める者です。そうした者は、神秘主義者であったり、狂信者であったり、迷信家であったりします。そのような魂の持ち主たちは、喜んで犯罪の企てに身を投じます。というのも、道徳的行為は彼らにとって十分ではないというのが彼らに共通する点だからです。

 世界と機械との類似はきわめて弱いということ、それらの類似はきわめて偶発的な事情による類似でしかないということ、これを宗教はわかっていないのです。因果性に基づく「神」の存在証明においては、宗教は経験の諸限界を超えています。この宗教によれば、神は、その結果=効果によって、すなわち世界あるいは「自然」によって証明されるということになります。宗教は、因果律を間違って用いています。あまつさえ、この宗教においては、因果律の用法は、不当で虚構的なものでしかないのです。

 ヒュームは、文化から、まさに宗教そのものと宗教に関連する一切を排除しているように思われます。宗教において、あるいくつかの言葉がある対象を神聖化(是認)するという事態と、社会的なことがらや法において、あるいくつかの言葉が約定を形成し、別のしかじかの対象に関する行動の本性を変化させてしまうという事態は、同じ意味で言われているのではありません。哲学は、ここで(文化において)、迷信に対する実践的闘争として完結するのです。そして他方では、認識に(因果律の)行使の基準とその法則を与えて、真なる認識を可能にするような矯正規則があり、これが作用すれば、あのように定義された領域(認識の世界)から、因果性のあらゆる虚構的な用法は排除されざるをえないのであって、もちろん宗教がまっさきに排除されざるをえないのです。情念が純粋な想像のなかで、つまり空想それのみのなかで反射するときに、宗教が存在するのです。なぜなら、宗教は、それ自身によっても、それを別の角度から見ても、類似と因果性という連合諸原理の空想的な用法にすぎないからです。

 虚構が原理へと生成したとき、反省は絶えず反省するとはいえ、もはや矯正することはできません。そのとき、反省は、妄想的な妥協のなかに身を投じるのです。

 ヒューム哲学の用語では、精神は、もはや妄想でしかなく、痴呆でしかありません。完成したシステム、総合、そして宇宙論(コスモロジー)は、想像上のものでしかありません。虚構(想像)は、物体の存在を信じる信念を携えて、自分自身をひとつの原理として、連合諸原理に対立します。連合諸原理は、拡張規則の場合と同様に、(想像によって)付随的に逸脱させられているのではなく、原理的に逸脱させられているのです。

 痴呆は、精神に委ねられた人間的自然(人間本性)であり、良識(理性)は、人間的自然に委ねられる精神です。一方は、他方の裏面なのです。良識の躍動を見いだすためには、だからこそ、痴呆と孤独の根底にまで行かなければなりません。

 

 ドゥルーズが解釈したヒュームによれば、宗教は、経験を逸脱した空想の産物にすぎません。経験の範疇でしか認識を認めないヒュームにとって、文化において、真っ先に排除されるのは宗教だということになります。そういう、経験からの逸脱をもたらし、偶発的なものを本質的なものと混同してしまい、因果律を間違って使用する宗教をもたらす精神を、ヒューム(=ドゥルーズ)は「痴呆」と呼びます。そのような痴呆と良識(理性)は、人間的自然(人間本性)を介したコインの裏表のような関係にあります。このように、ヒュームの経験論からは、宗教(神)は妄想として排除されるのであり、そのことにドゥルーズも深く同意していると言えます。